タンスの角に足の小指をぶつけた。
体を貫かれるような痛みが走り、声を出しそうになるが、すんでのところで堪える。
普通の人間ならば耐えられないだろうが、俺はなら耐えられる。
なぜなら、俺はハードボイルドだから。
そう!俺は日本を代表するハードボイルド探偵!
ハードボイルドとは、何があっても動じないこと。
タンスの角に小指をぶつけても、動じてはいけない。
なぜなら『何気ないふり』を極めなければ、ハードボイルドは務まらないのだ。
とはいえ、俺に痛みを与えたタンスを許すかどうかは別問題である。
俺は痛みの原因であるタンスを睨みつける。
このタンスは、我が探偵事務所にもともとあったものではない。
先月知り合いが捨てるところを、もったいないからと貰ったのだ。
つまり捨てられそうになっていたコイツを救ったのは俺であり、間違いなく俺は恩人のはずである。
にもかかわらず、このタンスは俺に何度も痛みを与えてくる。
もうすでに5回はぶつけている。
なんて恩知らずな奴なのだろうか?
いっそ捨ててやろうか?
「どうかしましたか?」
机で事務処理をしている助手が、帳簿から顔を上げてこちらを見ていた。
急に立ち止まったので、不審に思ったのだろう。
しかし、タンスに小指をぶつけたなんて知られるわけにはいかない。
なぜならハードボイルドの俺がタンスに小指をぶつけたと知れば、彼女のハードボイルドに対するイメージを壊してしまう。
だが、ぶつけてしまったものは仕方がないので、ここはハードボイルドらしく誤魔化すことにしよう。
「武者震いさ」
決まった。
そう思って助手の方を見るが、彼女はもすごい嫌そうな顔をしていた。
「はあ、事務所の外でそういうのやめてくださいね。仕事が減りますから」
そう言いながら、助手は再び帳簿に目線を落とす。
さすがに失礼じゃない?
だが、タンスに小指をぶつけたことはバレなかったので、良しとすることにしよう。
俺が安堵しているのも束の間、いきなり助手が立ち上がった。
「ど、どうした?」
突然の事に驚いて少しかんでしまう。
もしかして気づかれたか?
助手は妙なところで察しがいいからな……
「集中切れてしまったので、コーヒーを飲もうかと」
「ああ、そう」
助手はこちらを一顧だにすることなく、俺の横を通り抜けてキッチンの方へ入っていった。
なんか怒らせたか?
少し考えるも思い当たる節は無い。
昨日、彼女のプリンを食べたことはすでに謝っているので、それではないはず。
だが、『もしかしたら』と思うことはある。
俺はハードボイルドだ。
何事にも動じず、彼女の一挙手一投足にも、発言にも動じることは無い……
もしかしたら、それが助手とって冷たく感じられて――
「冷たっ」
首筋に冷たいものを感じ、思わず声を上げる。
振り向くとそこには助手が立っていた。
助手はコーヒーを淹れていたはずでは?
「コーヒーはどうした?」
「先生がボケっと突っ立っている間に入れ終わりましたよ」
いつもに増して言い方がキツイ助手。
「ああ、そうだ。俺の分は?」
「は?あるわけないでしょう」
とんでもなく冷たい目で言い放つ。
え?マジで何に怒ってるの?
「はい、コレ」
そう言って助手は俺によく冷えた保冷剤を渡してくる。
さっきの冷たいのはコレか!
「それで冷やしてください」
何を言われたのかわからず、聞き返そうとする。
だが助手は言うべきことは言ったとばかりに、そのまま離れていった。
と不意につま先から痛みの信号が送られてくる。
そこで俺は、合点がいった
ブツケた小指をコレで冷やせ、ということだろう。
助手の優しさに感激して泣きそうになる。
だが俺は泣かない。
なぜなら、俺はハードボイルドだから。
それにしても、まさか探偵の俺を出し抜くとはな……
助手の『何気ないふり』がうまいことよ……
何気なさ過ぎて、反応に遅れてしまった。
それにしても、彼女はようやくハードボイル探偵の助手に相応しくなってきたようだ
ハードボイルドを全く理解していないときのことを思えば、感慨深いものである
この調子で行けば、日本一のハードボイルド探偵事務所として、日本中に名を知られることだろう。
俺は輝かしい未来に思いをはせつつ、足の小指を冷やすのであった。
3/31/2024, 10:30:27 AM