—雪の上でもう一度—
物心ついた頃から雪の上を滑っていた。
雪国に生まれた僕は、父と母の影響でスキーを始めた。
山頂から雄大な雪景色を見下ろすだけで、僕の心は高鳴った。
『大谷小学校六年一組 橋本奏多 全国スキー大会優勝! ——』
地方新聞に大きく飾られた僕の写真。
これからさらなる飛躍をみせてくれるだろうという輝いた姿だった。
「コーチに誘われたけど、練習どうする?」
「……やめとく」
「わかった」
おそらく母はコーチに電話をかけ始めた。
いつもの声よりワントーン高い声が聞こえてくる。
「はぁ」と大きく息を吐く。
僕が練習に行かなくなって、一年が経った。
原因はわかっている。
僕は怪我をしたのだ。一年前の練習の時、スキー板が制御できなくなって、骨折をした。
全治半年の大きな怪我だった。
ただ、体の怪我はもう治っている。心の怪我が治らなかったのだ。
「そうかもしれませんねぇ」
ソファに寝そべると、母の声が耳に入ってくる。
「わざわざ、すみません。ええ、息子に準備をさせておきます」
母は電話を切った。
「コーチが一時間後、迎えにきてくれるそうよ」
「行かないって言ったじゃん」
「あなたはコーチの苦労を知りなさい。毎回わざわざ電話をくれるんだから」
確かに半年前に練習が始まる前に早退してから、コーチは毎週電話をくれていた。
「今日で続けるのか、やめるのか、決めなさい」母は鋭い声でそう言った。
きっかり一時間後に、コーチは車で迎えに来てくれた。
「ひさしぶりだな。少し大きくなったか」
「まぁ、ちょっとだけ」
僕をみて、母はシャキッとしなさいと僕の尻を叩いた。
母が助手席に、僕が後部座席に乗って車は動き出した。前の二人は、ひたすら僕の話をしていた。
車に揺られて三十分。いつものスキー場についた。僕たちは着替え始めた。
「サイズは合うか」コーチが訊いた。
「大丈夫です」
いつの間にか少しだけ小さくなっていた。
ザクザクと雪を踏み締める。もう既に、僕の体は震えていた。
むろん、寒いからではない。
「コーチ、やっぱり、無理です」
雪山を見た途端、僕の体の震えは最高潮に達した。僕は今すぐに帰りたかった。
「カナタ、スキーは嫌いになったのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんです。ただ、震えが止まらなくて」
コーチは大きく頷いた。
「なら、大丈夫だ」
コーチは僕を、山のない、平らな場所へ連れてきた。手を繋いで、ただ何度も同じ場所を往復した。
「お前が今やめたら、これから一生後悔すると思うんだ」
「……」
「またゼロからでいい。ちょっとずつ、俺と頑張ってみないか」
コーチは、ゴーグルの奥から熱い視線を送ってくれていた。
「……僕はまたスキーがしたい。あの景色をもう一度みてみたい」
胸が高鳴るあの瞬間を、また味わいたい。
今抱えている恐怖と同じくらい、前に進みたいと思っている自分がいた。
お題:胸が高鳴る
3/20/2026, 3:57:11 AM