赤とんぼ

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【初恋の日】


歴代の好きだった男の子の顔なんて覚えちゃいないけど、初恋の人のことはありありと思い出せる。

私の初恋の人は隣町にある遊園地で働いている着ぐるみの中の人だった。


四歳ごろだったと思う。私はあの遊園地で迷子になっていた。
小さいくせに肝の据わっていた私は変に落ち着いていて、冷静にお父さんとお母さんを探していた。
探しているうちに随分と裏の方まで来てしまったみたいで、家族連れの客で溢れかえった遊園地の騒々しい音はいつのまにか聞こえなくなっていった。さすがの私も不安になってきて、きょろきょろと辺りを見回しながら壁を伝うようにして慎重に歩いていた。

「あーーー、まじ暑いこの着ぐるみ。」

どこからかそんな声が聞こえてきた。
心細かった私は、周りに人がいたことが嬉しくて、ついその声の聞こえる方へ向かってしまった。
そして目の前に、タバコを片手に空を仰いでいるお兄さんを見つけた。レンガでできた塀のようなものに腰掛けている。お兄さんの格好はとても奇妙で、髪は金髪で刈り上げてあって、ピアスが数えきれないほど空いていた。でもそれより何より、腰から下に分厚い布が巻き付いていた。
サリーちゃんの色に似てる…
私はそう思った。サリーちゃんというのは、この遊園地のオリジナルキャラクターである。羊の見た目をしていて、全身パステルカラーで可愛いが、目がギョロギョロと動いて気持ち悪かったので、私はちっとも好きでなかった。
そして案の定というかなんというか、お兄さんの足元にはサリーちゃんの頭部分が置いてあった。つまり、あのお兄さんの体に巻き付いてる布は、サリーちゃんの体部分であり、あのお兄さんはいわゆるサリーちゃんの『中の人』なのだ。賢い私は瞬時にそれを理解した。私は子供だったけれど、着ぐるみの中には人がいるっていうことはとっくに知っていたので特に怖がるとか悲しむとかでもなく、珍しいものを見た、という感じの心情であった。
その瞬間、お兄さんと目が合った。
お兄さんはとても驚いたような顔をして、急いで着ぐるみを着ようとしたが、タバコを持っているのでどうすることもできず、諦めたかのように私に話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、あのね、これは違うんだよ。」
「いえ、別にサリーちゃんの中におじさんがいたことに驚いていたわけではないわ。」
「へぇ、おじさんじゃなくてお兄さんね。」
私はお兄さんの弁解の言葉を遮った。
お兄さんは一瞬戸惑ったものの、私の顔をじっと見て、バツの悪そうに喋り出した。
「ねー、お菓子買ってあげるからさ、お兄さんが着ぐるみ脱いでたこと誰にも言わないでくれないかな?いやー、着ぐるみって暑くって暑くって。だけど先輩はパーク内で脱いじゃ駄目って言うんだよね、厳しくない?」
突然みっともないことを言われて、私はつい呆れてため息をついてしまう。
「はぁ…、言わないわよ。そんなこと言っても私には何にもならないもの。」
「おお〜、随分肝の据わったお嬢ちゃんだねぇ。好きだよ俺、そういう子。」
急に歳上のお兄さんに好きなんて言われてしまった私は、冗談だと分かっていてもなんだか照れくさくて顔を背けてしまった。
「てか君、こんなとこで何してんの?迷子?」
「ええ。」
「うわ、まじで?意外だわー。」
何が言いたいのか、子供の私にはよく分からなかったけど、なんだか失礼なことを言われたような気がして、少しムッとした。
「案内したげよか?迷子センターまでなら連れてくよ?」
お兄さんは半笑いでそう言って、タバコをレンガの塀に押しつけて、地面にポイ捨てした。
「ポイ捨ては良くないのよ?」
私はお兄さんがそんなことも知らないのかと思い、注意した。するとお兄さんは少し不服そうにこちらを見下ろして、「あーはいはい、後で拾うから。」と着ぐるみを着直していた。
「嘘!絶対拾わないでしょ!」
私はムキになってお兄さんに拾わせようと着ぐるみをガッと掴んだ。お兄さんは心底面倒臭そうにため息をついて、「まじで拾うから!今は捨てるところないから拾えないけど、仕事終わったら拾う!なんなら指切りしてもいいぜ。」と言った。幼い私にとって指切りをするという行為は、絶対に取り消すことのできない契約のような、そんな絶対的な信頼があったのだ。
「ならいいわよ。破ったら針千本なんだからね?」
私は平気で約束を破りそうなお兄さんに釘を刺しつつも、お兄さんと指切りをした。お兄さんの小指は私よりもずっと大きくて、暖かくて、ついドキドキしてしまった。
「うっし。じゃあ行こうぜ〜。」
そう言ってお兄さんはサリーちゃんの頭部分を頭に被せる。確かに五月の昼間にあの分厚い着ぐるみで身を包むのは確かに暑いと思う。ほんの少し私はお兄さんを気の毒に思ってしまった。

「嬢ちゃんさ、大きくなったら何になりたいの?」
しばらく歩いて、沈黙に耐えかねたお兄さんは私に話題を振ってきた。
「弁護士になりたいわ。」
「わ〜ませてんね〜。」
「…どういう意味?」
「俺はさ、バンドがやりたい。」
私の質問を無視して、お兄さんは自分の夢を語り出した。だけどバンドがやりたいという夢には納得である。だってお兄さんの格好は、いかにもヤンキーという感じで、テレビで見るロックバンドの人達にそっくりだと思ったのだ。
「ちっぽけな夢ね。」
私はつい悪態をついた。だけど言ってから後悔してしまって、お兄さんの顔をちらりと伺った。でもお兄さんはサリーちゃんの着ぐるみに包まれているから、表情が分かるはずがないのだ。けれど、一言も言葉を発しないお兄さんを見て、怒っているのだと思った。何故だかお兄さんに嫌われるのが嫌だった私は「ごめんなさい。」と潔く謝った。するとお兄さんがくぐもった声で「何で謝るのさ。」と不思議そうに聞いてきた。お兄さんが怒っていなかったことが嬉しかった私はプイと横を向いて「なんでもないわ」と答えた。お兄さんの顔は見えなかったけど、なんとなく微笑んでいたような気がする。

無事に迷子センターに到着した。
そこにはお父さんとお母さんがいた。二人は私を見つけると、泣きそうな顔をして私に駆け寄り、抱きしめてきた。少し苦しかった。
そうしているうちにいつの間にかお兄さんはいなくなっていた。私は辺りを探したけれど、見つからなかった。

その日から毎日毎日お兄さんのことを考えていた。何をしてもお兄さんの顔が浮かんだ。一度、我儘を言ってお父さんとお母さんにもう一回あの遊園地に連れて行ってもらったけれど、あのお兄さんは見つからなかった。もしかしたらポイ捨ての罪でクビになったのかも。

ともかくこれが私の初恋の思い出である。初恋だと気づいたのは随分先のことになるけれど。
あのお兄さんは今一体何をしているのだろうか。バンドには入れたのだろうか。何の楽器を演奏しているのだろうか。考えれば考えるほど、会いたくて堪らない。
そうして、お兄さんにどうしてももう一度会いたい私は、四歳のあの日から、絶対に音楽番組を全部録画しておくのである。

5/7/2026, 1:00:48 PM