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神は居るんだろうな、とは思っていた。
だが、祈ったことはなかった。
俺のいちばんの望みは既に叶っていて、他に不足なんてひとつもなかった。



辺りはもう、夜になっていた。中天には月が白く輝き、遠くから獣の声がしていた。
舌を動かそうとすると、口の中で砂がじゃり、と動いた。それだけでもまあまあ最悪な気分だったが、この場で唾を吐く訳にもいかなかったので仕方なく飲み込んだ。大丈夫だ。産まれてこの方、風邪なんてひとつもひいたことがないのだから。

「お前を……、……売ることにする。」

青年は、まさに非常に悩み抜いた末の決断だ、といった様子で口を開いた。事実、ここに連れてこられてから何十分も、あるいは数時間も、俺たちはこうして顔を突き合わせていた。

「……それは、考え直していただくことは出来ないのですか。」
「……あぁ……、悪いな。」

青年はそう言うと、俺の数メートル手前に座り込んだ。このまま俺を見張りながら朝を迎える気のようだった。逃げるのは……、きっと難しい。俺は何とか上体を起こして正座すると、所謂土下座のような格好をした。

「お願いします。解放してください。」
「…………。……歳の割に、えらく行儀がいいな。」
「お願いします。このまま縄を解いていただくだけで構いません。村へはひとりで帰ります。俺が村へ戻る時間で、貴方なら遠くへ逃げられるでしょう。ですから」
「残念だが、逃げるための金が無いんだ。食料も武器も無い。食料はお前の村を襲って手に入れる予定だったし、武器は仲間がそれぞれ持っていったからここにはもう残っていない。」
「でも」
「お前を売るのが1番手っ取り早くて、楽で、得だし、俺は盗賊だ。攫った子供の説得なんかには応じないし、もう黙れ。寝ろ。明日は歩くぞ。」
「…………。」

なんとか説得の手立てはないだろうか、と俺は土下座の姿勢のまま考えた。青年はきっと盗賊に向いていないか、なりたてだろうと思われた。いつも見ている者たちと毛色がかなり違っていた。身なりは小綺麗で、子供の自分に怒鳴りも殴りもしなかったし、言葉遣いもそこそこ整っていた。

「……あの」
「もう黙れ……。」

地を這うような声だった。青年の雰囲気に気圧され、一瞬たじろぐ。だまれ……黙れ?そんなつもりはなかったが、何か気に触ることでも言っただろうか。青年を見上げると、驚いたことに、彼は酷く怯えている様子だった。その様相に声を出すこともできず、俺はまた砂の混じった唾を飲み込んだ。

「お前、本当になんなんだ……。なんで怖がらない。なんでそんなに落ち着いている……。……あぁ、あの男がいるからか?お前を逃がしたら、あいつを連れて、俺を殺しに来るつもりなのか……?」

何を言っているのか、全くわからなかった。が、何故青年が俺を恐れているのかは理解した。要するに俺ではなく、父からの報復が怖いのだ。きっと村から逃げ出す前に、父が盗賊相手に大暴れしているところでも見たのだろうなと思った。初めに目が合った時も、彼は酷く怯えていたから。だからこそ、盗賊ではなく、盗賊に襲われている村人のひとりだと勘違いしてしまった訳なのだが。

黙れと言われてしまったのでとりあえず土下座の格好のまま首を振って否定したが、効果がどれだけあるかは不明だった。

「寝ろ。」

青年は繰り返した。

そもそも、俺は落ち着いているのではなく、感覚が麻痺しているだけなのだ。温室育ち、世間知らず。あまりに強い人が赤子の頃からそばに居たから、盗賊とかが普通に出るこんな世界でも危ない目にあったことがない。危険を危険だと認識はしていても、その実感が無い。ただそれだけだ。今だって現実味が無いと思っているし、なんならあまりに危機感の無い話だが、普通に眠気を感じてもいた。

俺は寝た。



夜明け前、空が白み始めた頃に青年は立ち上がった。

「行くぞ。」

それだけ言って、俺の腕を引いた。丁寧ではなかったが、乱暴でもなかった。
歩きながら、俺はぼんやりと辺りを眺めた。朝靄の中に木々の輪郭が浮かんでいた。それを見て、父はどうしているだろうかと思った。朝起きたら父が助けに来ないだろうかとも思ったが、『あの』父が未だ助けに来ていないということは、きっともう、父の元に帰るのは難しいのだろう。それよりも、何も言わずに居なくなってしまったのが、ひどく申し訳なかった。でもこれで良かったのかもしれないとも思った。俺がいない方が、父は自由に生きられるのだから。

青年は俺の歩幅に合わせて速度を落としていた。意識してそうしているのか、無意識なのかは分からなかった。



街が見えてきたのは昼を少し過ぎた頃だった。大きな街ではなかったが、人の往来はそれなりにあった。青年は人目を避けるようにして路地を選んで歩き、やがて雑然とした区画に入った。獣の臭いと、腐った何かの臭いが混ざった場所だった。

「ここで待て。」

青年はそう言うと、俺を柱に繋いで奥へ消えた。

柱に背を預けて、俺は空を見た。雲がゆっくりと流れていた。また父を思い出した。こういう時、父ならどうしただろうか。でも父ならそもそも最初に目が合った時にすぐに相手が盗賊だと気がつくだろうし、次の瞬間には目の前の盗賊を叩きのめしている。俺にはどちらも出来なかった。

しばらくして、青年が男をひとり連れて戻ってきた。品定めをするような目つきで俺を見る男だった。値段の話をしている声が聞こえたが、数字はあまり高くなかった気がした。まだ体が小さいから労働力としては価値が無いのか、と場違いにも少し悔しい気持ちになった。
青年が俺の傍に来て、縄を確認するような仕草をした。そのついでのように、小さな声で言った。

「俺が言えることでは無いが……、いい人に買ってもらえよ。」

まさにこの身が売られるという場面なのに、やはり現実味が無いのはいい事なのか、悪いことなのか。青年は街の雑踏に消え、俺は店の奥に押し込められる。こんな時でさえ俺の頭にあるのは、気高く美しいあのひとが、今日も幸福に生きられるだろうか、そうだったら嬉しい、という、ただそれだけなのだ。

4/15/2026, 8:26:16 AM