旅人は疲れ果てていた。
まだ見ぬ理想郷を求めて長い道のりを旅してきた。年月も経った。身体も酷使してきた。
けれど、まだ辿り着けない。
噂に寄れば理想郷を見つけた者は、死ぬまで幸福に包まれていたというから、どんなに素晴らしい景色が広がっているのだろうと想像してきた。きっと豪華な食事やきらびやかな衣服に溢れていて、みんな満足そうに笑っているのだろうと。けれども、そんな想像と似た景色にはどこに行っても出会えなかった。
とうとう旅人は道の端に倒れ込んだ。体力の限界だった。腹も空いていた。
「もしもし、大丈夫ですか?」
ふいに声が聞こえた。なけなしの体力をすり減らし何とか視線だけを上げると、そこに若い娘がいた。その隣には娘の父親だろうか、幾許か年を重ねた男も立っていた。
けれど旅人はそれきりで意識を手放した。もう眠くて眠くて堪らなかったのだ。
次に目覚めた時はあたたかなベッドの上だった。傍らには先程の娘と、離れた場所に父親がいた。彼ら親子は旅人を自分らの家に迎え入れた。旅人も今は休息が必要だったので、しばらくの間だけと決め、そこに留まることにした。
旅人は貧しい村の出だった。親もいなければ頼れる大人もいなくて、幼少期は生きることだけに必死だった。悪いこともした。唯一殺しだけはしないで済んだ人生だったが、それでも辛く地獄のような日々だった。だから理想郷の噂を聞いて行ってみたくなった。もうこれ以上生きるために悪いことをしたくなかったし、何より旅人は根が優しかったから、誰かを傷付けるたびに苦しいほどの罪悪感に苛まれることに耐えられなかったのだ。
旅人は自分を初めて思い遣ってくれた親子に、そんな事情をいつの間にか話していた。親子は旅人の過去を聞き終えると、それでは好きなだけここに居て、また旅をしたくなったら出て行けばいいと、優しく提案してくれた。旅人を哀れむでも、厭う訳でもなく、ただそれだけを言ってくれた。旅人はそれが嬉しかった。初めて誰かに受け入れてもらった気さえした。
娘と父親も決して裕福な暮らしではなかったので、豪華な食事もきらびやかな衣服も、どこにもなかったけれど、旅人は世話をしてくれた彼らに報いるため一生懸命働いたおかげで、彼ら親子だけでなく、その町にいる人達にも歓迎されるようになっていた。
そうして月日は巡り、ふとある時、旅人は旅の終わりを悟った。
旅人が旅で一番追い求めていた満足そうな、幸せそうな笑顔が、そこかしこに溢れていたからだ。
【理想郷】
10/31/2023, 10:50:08 PM