時計を見ると終業時間の10分前だった。
急ぎの仕事も無いから、今日も定時で帰れるな。
仕事道具の後片付けをしていると、後ろに誰かが立つ気配がした。
「来ちゃった」
そう言われて後ろから抱き着かれる。
振り向くといたのは、なんと家で待っているはずの妻だった。
「なんで、ここに」
「あなたに会いたくて……
あなたがいないと寂しくてだめなの」
「ゴメン。君にそんな思いをさせていたなんて……」
「いいのよ。今こうしてあなたと会えたんだもの」
「香織さん」
「健司さん」
僕は彼女を抱きしめるべく、両手を広げる。
彼女の目を見ながら抱きしめようとするが、寸でのところで腕が止まる。
「でも駄目だよ、香織さん。まだ仕事が終わってない」
それを聞いた彼女は悲しそうな顔をする。
自分の心がチクリと痛む。
「分かったわ、健司さん。
いつもの所で待ってるわね」
「ああ」
後ろ髪をひかれる思いで、彼女から目を離す。
自分だけ、楽をすることはできない。
その決意を胸に片づけを再開しようとすると、頬に柔らかい感触があった。
「お仕事をする姿、カッコよかったわ」
そう言って彼女は離れていった。
片づけをする手が止まり、彼女に視線が向く。
立ち去っていく後ろ姿に思わず見惚れてしまう。
彼女はいつだって綺麗だ。
と、ボーっとしている場合ではなかった。
就業まで五分を切ってしまった。
一秒でも残業するつもりはない。
残業した分だけ、彼女と離れる時間が長くなる。
○ △ □
「アレ、なんでみんな何も言わないんすか?」
「うん?ああ、お前今日初日だったな。教えてやるよ」
俺が聞くと、ベテランの厳さんは蓄えた髭をさすりながら遠い目をした。
「あの二人が結婚してから毎日アレでな。
まあ最初は新婚って言うことで多めに見ていたんだが、一か月たってもやめなかった。
結構キツイ言葉で言ったこともあるんだが、毎日懲りずにやってきてな。
それでも本人は責任感があってキチンと仕事をしてくれるから、それをヨシとしてみんな諦めたんだ」
「なるほど……」
俺は厳さんの言葉を聞いて、仕事を終えて抱き合っている二人を見る。
「あの、二人はお年を召されているようですが、結婚してから何年目すか?」
「あーもう三十年経つかな」
「三十年……」
俺は思わず言葉を繰り返す。
「だが悪い事ばかりじゃない。
二人のおかげで、ここの労働環境よくなったんだよ。
女性が来るなら職場は綺麗にしないといけないし、待ってもらうスペースも作ったんだ」
「それで休憩スペースが豪華なんすね。お菓子とかも」
「男女差別と言われそうだが、お客さんにずっと立ってもらうわけにはいかないからな。
あと残業なんかした日には圧がすごいぞ。
気が散って仕方ないから、みんなで帰った。
それ以来残業しないよう調整してる」
「へえー」
もう一度二人のほうを見ると、仲良く手を繋いで帰るところだった。
「はあ、あの年でも仲が良いってのはいいっすね」
「彼女いるのか?」
「いるけど、絶賛喧嘩中で別居中」
俺の答えに厳さんはガハハと笑い、俺の背中を叩く。
「じゃあ、二人を見習って仲直りすればいい」
「『見習って』って、どうするんすか?」
「そりゃ、彼女に会いに行くんだよ」
「何しに来たって言われるだけっすよ」
厳さんはニヤッと笑う。
「そん時は『君に会いたくて』って言えば仲直りさ」
1/20/2024, 9:45:31 AM