「好きだなぁ」
それが、あの子の口癖だった。
今日だけで何度言ったかすら分からないが、確実に、両手だけでは溢れ返ってしまうほどに言の葉を紡いでいるだろう。感情が昂った時、何かを褒める時、ぽろりと口から零れた時。どんな場面でも、あの子は何度も「好き」と口にする。
…段々と日が傾いて、駄々をこねる子供のように顔をオレンジに染めた空。
いつものようにあの子を後ろへ乗せ、いつものように坂道を自転車で駆け下りる黄昏時。今日もまた、潮風を全身に浴びながら、自転車のカゴに投げたペットボトルの叫び声と共に。
海沿いを走るのは心地が良い。何か悩みがあったとしても、ここを走ればすぐに吹っ切れてしまう。…魔性の坂道、とやらだろう。
「やっぱここ、好きだなぁ」
自転車の後ろに腰をかけ、背に手をまわしたあの子が呟く。走馬灯のように流れる代わり映えのない風景だが、あの子はここが好きなのかもしれない。ここを走る度に、いつも決まってそう呟くのだ。
高校生最後の夏休み、最終日。
毎年、毎日、この時間帯は決まってあの子とここにいた。雨の日も、風の日も。それ故かはわからないが、この時間帯であの子と一緒にいないと何故か不安になってしまうのだ。自分でも笑ってしまうくらい、あの子に心を奪われている。
一緒にいられるのも、今年で最後だろうか。
あの子は東京の大学に、自分は家業の手伝いに。進路が大きく別れ、身を置く場所も遠く離れてしまう。
それでも、今、背中から伝わるあの子の体温は、忘れたくない。
ぎゅ、とハンドルを握りしめた拳の上に、頬を伝って汗が垂れる。
いつか、この景色に向けられた「好き」が、自分へ向くように。そう願いを込めて、最後の夏を駆け下りる。
「いつもこいつで走ってるもんね」
「ほんとにいつもありがと!スッキリできる!」
「いいんだよ、それより明日から学校だよ?宿題やった?」
「…あっ」
午後5時、夜がやってくる前のランデブー。
8/31/2025, 2:03:17 PM