すべてが嫌になった夜、あてもなく線路沿いの道を歩いていると、ポツポツとアスファルトに雨が落ちてきた。その後急激に雨脚が増し、あっという間に土砂降りになる。まるでここ数日の俺の代わりに泣いているような雨だった。
一昨日、ひょんなことから上司といざこざがあり勢いで仕事を辞めた。こんな時にそばにいてほしいはずの恋人にも別れを告げられ、まるで世界から切り離されたみたいに、真っ暗な道をただ歩いていた。
雨から逃れようと逃げ込んだ公園の東屋には、先客がいた。チェスターコートを着た整った身なりの老紳士が、静かにベンチに腰を下ろしている。
「どこまで行くんだい?」
老紳士の唐突な問いに、反射的に答える。
「もう、どこでもいいです」
投げ出すように放った声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「どこでもいいか」老紳士がふっと笑う。「それもまたいい。行きたいところがない時は、足が進むままに行けばいい」
激しい雨音の中で、彼の深く優しい声ははっきりとした輪郭を持って耳に入ってくる。
「私にも今の君みたいな顔をしてた時期があったよ」
老紳士が昔を懐かしむように、雲に覆われた雨の空を見上げる。
「失敗ばかりしてる顔ですか?」
「いや、まだ『正解』を探してる顔だ」
その言葉が、不思議と胸に引っかかった。俺はずっと間違えないことを心がけて生きてきた。それなりの大学を出て、無難な会社に就職し、期待通りに働いて、誰かに恥じないように。
でも気づけば、この有り様だ。ふとした瞬間にそれまで積み上げてきたものは脆くも崩れ去る。
「こんな道でも、歩く意味はありますか」
「そんなものはないさ」老紳士がぼそりと呟く。「『意味』なんてものは、あとから振り返った時に見えてくるものだ。人生はどの地点に立っていても、その先に待つ数多の『正解』の分岐点。どの道を選ぼうと、必ず意味を持つようにできている」
少しずつ弱まってきた雨脚に、老紳士は帽子をかぶり直してゆっくりと立ち上がると、東屋の外へと歩みを進めた。道端にできた水溜りのそばに立ち、まっすぐ見下ろす。
「水溜りに映る自分を見てごらんなさい。そこに映る自分がどんな表情をして、どんな装いをしているか。それが意味ってやつだ」
その言葉に、思わず息をのむ。
「笑っていようが、泣いていようが、たとえみすぼらしい格好をしていようが、そこにいくらでも意味は見いだせる」
老紳士の背中がとても大きく広く見えた。
俺は老紳士の隣まで歩き、水溜りを見下ろした。絶望に満ちた表情の中に、わずかな希望が残っているような気がする。
「俺は、まだ歩けますか」
「人間というのは歩かずに生きることはできないよ。歩くことに意味を求めすぎないことだ。歩けるなら歩けばいい。疲れたら休めばいい。こうして自分と向き合うことがあれば、その時意味を考えればいい」
彼の言葉が、肩を打つ雨とともに俺の中へと染みていく。彼のように生きたい――そう思った。
しばらくその場で水溜りと向き合っていた。これまで流されるように生きてきた人生は、大した抑揚もなく、平坦な道だった。本当に意味のない人生だったのかと考えながらも、ただ見えていないだけの様な気もしてくる。
会社を辞めたのも、彼女と別れたのも、ただレールが切り変わっただけ。この道の先もどこかにつながっている。
気づけば雨はすっかり上がり、老紳士は姿を消していた。雲の切れ間から差した光が、濡れた地面をきらきらと輝かせる。
地面を照らすこの光が『意味』なのかな――ふとそんなことを考える。
この道がどこに続いているのかはわからない。でもこの先にあの老紳士の姿があるかもしれない。俺は再び歩き始めた。
#どこまでも。
10/12/2025, 6:08:19 PM