「あ〜、この匂い落ち着く〜」
と、詩織は本屋に来る度同じ事を思いながら、鼻からいっぱいにその独特な匂いを吸い込む
いつも立ち寄りたいと思いながら、一度足を踏み入れると時間が経つのも忘れて読み耽ってしまうから、仕事中は本屋の前は足早に通り過ぎることにしていた
その日はたまたま詩織イチオシの本屋の近くで営業の仕事があり、終了後は直帰の許可を貰っていたので、時間を気にせずその至福の時を味わえるのだ
本屋は突然降り出した通り雨を凌ごうと、入り口には雨宿り目的の人があちこちこから集まって来ていた
「あ!あった、あった! ようやく見つけた!」
以前からずっと読んでみたいと思っていたその文庫本は、何軒か回った本屋では見つけることが出来ず半ば諦めていた
電子版で読めば良いのだが、詩織はお気に入りの本は「紙」で読む派なのだ
深呼吸をして、その本に手を伸ばした瞬間、その本が詩織の頭の上から伸びてきた手に引き抜かれて行った
(ちょっと、ちょっと 何!?)
と慌てて振り向くと、そこには彫りの深い美しい顔をした青年が立っていた
「あ!ごめんなさい! 僕ずっとこの本を探してて、ようやく見つけたから思わず取っちゃいました」
と、その青年は詩織にその本を差し出した
「そうなんですよね、私もようやく見つけて小躍りしそうでした」
と、出来る限りの笑顔で詩織は答えた
もし、憮然としたオッサンだったらすかさず突っかかっていたはずだ
「どうぞ、どうぞ 残念だけど、ここにあることが分かったからまた来ますから それとも、ジャンケンでもします?」
と爽やかな笑顔で譲ってくれると言いながら、ジャンケンと言い出すその青年の茶目っ気に詩織は心が躍った
「いえいえ、どうぞ 私は他にも読んでみたい本もあるし」
と、詩織は本の行き先よりその青年との会話をもう少し楽しみたい気持ちの方が強くなっていた
「でもそれじゃあ、ずっと譲ってもらったことが気になっちゃって本に集中出来なくなりそうだし…」
と苦笑いする青年にすかさず
「それも折り込み済みです」
とイタズラっぽい笑顔を返した
そろそろ雨が上がりそうだ、と言う声があちこちから聞こえ、静寂の本屋にザワザワとした空気が流れる
詩織が外の様子を見て戻ってくると、さっきの本が抜かれたところに紙切れが挟まっていた
ノートの切れ端のようなその紙切れには
「ありがとう!」
と一言書かれていた
(へぇ、なかなか粋なことをやるじゃない)
と詩織はその紙切れを丁寧に畳んで手帳に挟んだ
通り雨のような、一瞬の恋だった
『通り雨』
9/27/2024, 11:01:50 PM