君が紡ぐ歌
「君が紡ぐ」という時の「君」って誰なんだろう。
高校生の時、総称の「you」というのを学んで「you」なのに「あなたたち」と同じような意味というのを聞いて驚いたことがある。
でも、これって日本語でも似たようなものがあって、歌の歌詞でラブソングなんかによく出てくる「君」は歌う人によって相手が違うし、アイドルなんかがライブやテレビで「君」って言う場合は聞いてる全員が対象になる。
好きな人がいない場合はただ記号として「君」とか「you」とか言ってることになるのか。
話を戻して、今回の君は誰なんだろう、と。
私が「君」と言った場合、スマホの前で読んでいる人のことを指すが、今私が「君」という文字を見ているときは他ならぬ私自身のことを指す。
なんだか不思議な感覚に見舞われている。
世界に「君」は一人しかいないのに「君」と聞いて反応する人は全世界にいる。
だからと言って「君」が何人もいるという話にはならない。
「君」という言葉が持つただの呼称的な部分と人物的な部分が混ざってしまっているだけだと思うが。
なんだか面白い試みができそうだな。
小説の文章中に「君」という字が何回も出てきて、主人公が登場人物のことを全部「君」と呼んでいるとする。
登場人物は性格も性別も違うが、同じ「君」という呼称がされているなら、まさかとは思うだろうが同一人物ということにもできる訳だ。
独我論という考えがあるが、今話していることにも共通している所がある。
ざっくりと説明すると、結局は世界には「君」しかいないんだ、という考え方のことを独我論という。
世界には「君」しかいない。
今までの文を読んでいればこの言説のおかしさが分かると思う。
世界には「私」しかいない。
といっても同じこと。「私」を認識している人が世界にはごまんといるわけだし、「私」を「私」と認識してない人は統合失調症かなにかでない限りあり得ない。
「いや、他人は自分自身を『私』と認識するロボットだ」と反論することはできるが、それは反論にはなり得てない。「私」と認識できているなら、それはもはや世界に「私」しかいないというのを自己論破してしまっている。
前までは独我論を「確かにそう言えるな」と考えていたが、今「君」とか「私」とか考えていたらなんだかあり得ない理論のように思えてきたな。
10/20/2025, 6:33:46 AM