人は愚かで、めんどくさい。
結局、私の思考はそこに帰結する。
自宅の一角で、一人、カップ酒の薄っぺらい蓋を捲る。
切れかかった電球が、薄暗く室内を照らしている。
強い安酒を舐めながら、今日を振り返る。
どの人間もどんな関係も、なんだかんだ言いながらその実、人のために自分を偽ったり、演じたり、或いは気を擦り減らしたりで、回っているのだ。
実際、今日一日ですら、私は何食わぬ顔で嘘とも言い難い、円滑なコミュニケーションのための偽りをやってのけたし、一緒に昼ごはんへ行った同僚も、親しく挨拶をしてくれるお隣さんも、多かれ少なかれ、私に気を遣い、コミュニケーションのためになんらかの無意識的な演技をしてのけたはずだ。
人間関係というのは、斯くもめんどくさい。
そして、人間の脳とは愚かしいことに、他ならぬ自分が自分を演じているはずなのに、他人のことは疑わず、手放しで信じ、嘘がなくてもやっていけると思い込むのだった。
そんなことに気づいてしまった大学3年生の秋から、人と関わる、ということは急激に私の中で魅力を失ってしまった。
円滑なコミュニケーションのために誰しもが自分を偽っている、ということに気づいてから、生きやすくはなった。
今まで、曖昧にされていた世の中というゲームの中の攻略法へのとっておきの一番答えに近い大ヒントが、不意にはっきりしたようなものだった。
しかし、それだけだった。
タネの分かった手品を楽しめるほどの教養は、私にはなかったし、嘘を見抜いて剥いだ後に現れる、動物的な人間の醜悪さを楽しめるほど、悪趣味でもなかった。
途端につまらなくなってしまったのだった。人に関わることが。
しかし、現代の、人のコミュニケーションと分業によって成り立つ社会に育てられ、生かされ続けた現代人が、今更、人間一人で生きていけるわけもない。
だから、私は、退屈とくだらなさに蝕まれながらも、ただの作業のように、必要最低限な人とのコミュニケーションをこなして、あとは管を巻くようにして、生きながらえているのだった。
私は、孤独が好きだ。
嘘も偽りも演技もなく、ただ、だらしない動物的な自分でいる孤独が好きだったのだ。
もしも無人島に行くならば。
世間ではそれは、社会からの庇護と他人という存在二つから拒絶されるがために、“究極の”ものとされているらしいが。
私にはむしろ、魅力的で、十二分に検討すべき選択肢に思えた。
もし私が遠い将来、無人島を所有できるくらいに私財を築き、夢が実現できるようになったとして。
もしも無人島に行くならば。
私は一人の獣であれる生活を存分に楽しむだろう。
そんな夢物語を描きながら、酒を舐める。
強い安酒は、絶望と孤独のつまみが最高に合う。
10/23/2025, 1:33:09 PM