sairo

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険しい山の奥深く。巌《いわお》に坐し、妖が一人禅を組む。
静かだ。鳥の囀りも木々の騒めく音も、まるで妖に倣うかの如く響きはしない。
音を立てずに、風が過ぎていく。妖の髪を結袈裟《ゆいげさ》を揺らす風は、だが妖の意識を逸らす事は叶わず。くるり、と円を描いて、諦めたように風は空高くに吹き抜けていった。
かさり。草を掻き分ける、小さな音。黒い外套を纏った幼子が一人、草の隙間から顔を覗かせる。無言で巌の上の妖を見上げた。
微かに妖の気配が揺らぐ。長鼻の赤い翁の面越しに、幼子を一瞥し。
だがそれも一瞬。揺らいだ気配は凪ぎ、妖は黙したままそこにただ在った。



気配が揺らぐ。短く息を吐いて、妖は錫杖を手に音もなく立ち上がった。
とん、と一本歯下駄で巌を蹴り、軽やかに地に降り立つ。地に座り妖を真似て禅を組んでいた幼子は、しゃんと鳴る涼やかな錫杖の音にはっとして顔を上げた。

「――きたのか」

静かな声が問いかける。妖の面越しに視線を交わしながら、幼子は無言で頷き答えた。
暫し目を合わせ。不意に妖は幼子に背を向け、歩き出す。幼子はそれを止める事はせず。少し遅れて、後を追うように歩き出した。
山奥で修行に明け暮れる妖の元に幼子が訪れてから、一月が経とうとしていた。

――見ているだけであるならば、咎めはしない。

物珍しげに、様子を伺うように妖を見る幼子に、妖は一言だけ告げ、それ以来こうして奇妙な関係が続いていた。
幼子は何も言わない。静かに妖の修行の様を見て、次第にそれを真似るようになっていた。
どうするべきか。
過ぎる思いに、妖は頭を振る。雑念を払うように錫杖を鳴らし。僅かばかり足を速めた。

とさり。
背後の小さな音に、妖は足を止める。妖に追いつこうと急ぎ足になっていた幼子が、足を取られ転んだようであった。
泣き声一つなく、ゆっくりとだが立ち上がる。痛めたのであろう片足を引き摺りながら妖の元まで歩み寄り、少し距離を取って立ち止まった。
しゃん、と錫杖が鳴る。徐に振り向いて、妖は幼子を見据えた。

「何故、訪れる」

幼子の真意を問う声が、静寂に包まれた周囲に凜として響く。
僅かな逡巡の後、幼子は真っ直ぐに妖を見上げて答えた。

「つよく、なりたいから。ひとりでも飛べるように」

纏っていた外套の紐を解く。するりと落ちた外套の下から現れたのは、白の片翼だった。
最初から欠けていたのか、奪われたのか。妖には分からない。徒に詮索する必要も感じない。
静かに幼子に歩み寄る。擦りむき傷になった膝や手のひらと痛めた右の足首を見て、妖は幼子を抱き上げた。
錫杖を地に差し、その手を幼子の傷に翳す。暖かな光が傷を包み、後には傷跡一つ残ってはいない。

「すごい」

驚く幼子を一瞥し同じように痛めた足首も治すと、妖は幼子を抱いたまま空を見上げた。
風が妖の周りで渦を巻く。ばさり、と翼が広がるような音が聞こえ、幼子は辺りを見渡した。
何もいない。少なくとも、幼子の見える限りでは、音に見合うだけの大きな翼を持つものはいなかった。
幼子の髪を背の翼を揺すりながら、風が纏わり付く。もう一度羽ばたく音が聞こえ、風が強く吹き抜けて。

気づけば、妖に抱かれたまま幼子は空を飛んでいた。


見下ろす大地は遙か遠く。見上げる空もまた果てがなく、輝く陽はさらに遠い。
連なる稜線を見ながら、幼子は目を細めた。
それは景色の美しさに見入っているようにも、泣くのを耐えているようにも見えた。

「風を読む事だ。声を聴き流れゆく様を見定めれば、片翼であろうと飛ぶのは容易い」

妖の言葉を肯定するかの如く、風が過ぎていく。ばさり、と見えない翼の音と共に、ゆっくりと下りていく。
そうして地に降り立って、幼子は妖の腕から下りると目に不安と期待を乗せて妖に尋ねた。

「どうやって」

何をすれば風を読む事が出来るのか。今まで妖の真似事をしていただけの幼子には、その方法が分からない。
煌めく目を見返して、妖は一つ息を吐く。膝をつき、己の顔を覆う面に手を伸ばした。

「致し方なし。未だ修行途中の未熟者の手解きで良いならば、貴殿に伝えよう」

面を外し、幼子と視線を合わせ問いかける。
迷いのない目をして、幼子は丁寧に頭を下げた。

「お願いします」

微笑みを携えて、外した面を幼子の頭に被せ妖は立ち上がる。
錫杖を持ち、幼子に手を差し伸べた。

「行くか」

妖の手に幼子は手を重ね、歩き出す。幼子の歩幅に合わせ、静かにゆっくりと。
繋いだ手に視線を向けて、そして妖を見上げる。面はなくとも表情の読めぬ妖を幼子は暫し見つめ、迷いながら口を開いた。

「どこに行くの?」

答えがもらえるかは分からない。そも聞いても良い事なのかと僅かな不安を浮かべる幼子に、妖は穏やかな表情を浮かべ答えた。

「護摩行をする」
「ごまぎょう?」
「炎によって煩悩や業を焼き払い、心願成就を目指すものだ。何か願いはあるか」

願い。繰り返す幼子は、妖から視線を逸らす。視線を彷徨わせ、言葉を探して立ち止まった。
それに合わせ妖も足を止める。言葉なく待ち続ける妖に縋るように視線を向け。
繋いだ手に僅かに力を込めて、幼子は呟いた。

「はんぶんに、会いたい。はねのもう半分…半身に、会いたい」

か細い声に頷いて、妖は再び幼子を連れ歩き出す。
静かな、それでいて熱く狂おしい心の内を幼子の中に感じ取り、妖は強く錫杖を鳴らす。
しゃん、と涼やかで澄んだ音が、辺りに響く。
風が舞う。木々を揺すり、音を立てる。どこか遠くで、鳥の鳴く声が聞こえた。

幼子の始まりを祝福するかのように。



20250417 『静かな情熱』

4/18/2025, 5:10:43 AM