→短編・ブリキ缶
(注意: 家庭内暴力表現あり)
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ガラッと部屋の扉が開いたかと思うと、
「起きろ!」
お父さんの怒鳴り声がした。
その声に僕は即時に反応して、ぴょんと布団のから飛び出す。暗かった部屋が、となりの台所の灯りで明るくなる。お母さんが「起こさないで!」と叫んでいるが、僕はもう起きてしまった。
第一、寝ているも起きているも関係ない。お父さんを無視したらどんな目に合わされるか分かったもんじゃない。
赤い顔をしたお父さんは、お酒の匂いを巻き散らせながら僕に顔を寄せ、ポンと布団の上に小さなブリキ缶を落とした。
「土産」
「へ?」
バチン! すごい衝撃が頭を揺らす。目から星が飛んだ。頬が熱い。
「人から物を貰ったら『ありがとうございます』だろうが!」
「ご、ごめんなさい、ありがとうございます……」
殴られた頬を抑える僕の手が震えている。何とか声を絞り出した僕を見下ろしてお父さんは、家が揺れるほどの大きな音を立てて扉を閉め、僕の部屋から出ていった。
僕は慌てて布団を頭から被り耳をふさいだ。これから何が起きるか知ってる。ガタガタと物音。お母さんの泣く声がした。僕には何もできない。僕の目からも涙があふれた。
アイツがくれたブリキ缶のことなんて、微塵も考えなかった。
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翌日、僕はそのブリキ缶のことを思い出し、蓋を開けてみた。15センチ四方の、味も素っ気もない鈍色のブリキ缶だ。
胴と底を繋ぐ接合部分が黒い筋を描いて缶底を一周しているだけで、中には何も入っていなかった。
残しておく価値もないけれど、捨てることもできない。アイツの噴火点に触れるのは面倒だ。
仕方ない、ペン立てにしておこう。僕は近くのペンを入れた。
「あれ?」
ペンは缶の縁に斜めになって寄りかかっていたが、しばらくするとどんどんと短くなって行った。寄りかかる角度が変わったとかそんな話ではない。確実に缶から飛び出した頭が低くなっている。
僕は缶に飛びついて上から覗き込んだ。
「な、なにこれ……」
缶の中は、さっきと同じように底が見えている。ペンの姿はない。しかし缶の頭を越えたところには、まだペン先が残っている。じゃあ、缶の中のペンはどこへ?
驚きに目を見張る僕の目の前で、ズルズルとペンは頭を沈ませ、やがてすべて缶の中に消えてしまった。
僕は缶を裏返し振ってみた。ペンは落ちてこない。何も音もしない。
もう一度缶を覗き込む。何も変わったところはない。マジックにしてはタネがわからない。普通の家なら、お父さんに訊くのかな? お父さん、これってマジックのおもちゃ?なんてね。
夕方のアパートの部屋、玄関の鍵がガチャガチャと音を鳴らした。アイツが帰ってきた! 僕は慌てて缶を隠した。
次の日の学校を僕は休まされた。顔にできたアザが目立っていたから。そしてそれが鬱陶しいとさらに殴られた。部屋の隅に隠したブリキ缶が鈍く光ったのが見えた。
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あれから僕はブリキ缶の能力を色々と試してみた。
その結果、このブリキ缶は何でも入れた物を消し去ることが分かった。はじめは缶に入るくらいの大きさの物から試した。
消しゴム、キャラメル。入れたものは、まるで熱湯に氷が溶けるように、何もない空っぽに溶けて消えた。
次にちょっと大きなもの、コップ、ノート。ブリキ缶の内側に少しでも入れば、消える条件は満たせるようで、ヘビが獲物を飲み込むようにすべて缶の中に飲み込まれていった。
そして、僕の指。爪の先が触れた時点で缶から引き出してみた。爪の先だけがカッターで切ったように消えていた。
次に昆虫やカエル。ごめんね、ごめんなさい。僕は悪い子です。でも、悪い子にならなきゃ、悪者を退治できないんだ。彼らは、缶に放り込まれた途端に消えた。
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ある日、アイツが急にあのブリキ缶の話を初めたので、僕は焦った。アイツもあのブリキ缶の秘密を知っていたとしたら、僕の計画が潰れてしまうかもしれない。しかしそんなことはまったく杞憂だった。結局、アイツは武勇譚を語りたいだけだったようだ。居酒屋で絡んだ行商人風の老人に飲み代を立て替えさせたらしい。そのさらなる戦利品として手に入れたのがあのブリキ缶だという。
「ど、どうしてブリキ缶くれたの?」
意を決して質問する僕に、アイツは興味なさげに言った。
「知るかよ。いずれみんなの役に立つとかジジイはぼやいてやがったかな」
あぁ! 神様!
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アイツは深酒をするとなかなか起きない。お母さんは夜のお仕事でいない。
明け方、僕はそっと布団から這い出した。深呼吸してブリキ缶を手に取る。小さな、とても小さな缶と、アイツの語った老人の言葉を頼りに僕は震える体に喝を入れて立ち上がった。
明け方の藍色の世界を僕は電気を付けずに忍び足で進んだ。どれだけ慎重に足を出しても、床はミリッとかキュッとか鳴った。これから僕がやることを止めようとするみたいに。
でも、もう無理だよ。昨日から何も食べてないし、このままだと明日もどうなるかわからない。僕は、生きたい。
アイツの部屋の扉に、僕は耳を押し付けた。起きている気配はない。そっと扉を開ける。
―ガチャ。
思ったより大きな音がして、僕はその場に固まった。もしアイツが起きたら………。いまさら気配を隠せるでもないのに、僕はしばらくその場にじっとして息を殺した。一気に汗が吹き上がる。大きくなるばかりの心臓の音をブリキ缶に沈めたいと思った。
しかし奴が起き上がる気配はなかった。安堵とともに吐き出した息とともに、さっきよりも倍の汗が噴き出した。
プールから上がったばかりのような汗を滴らせ、僕はやっとの思いで奴のそばに寄った。酒とタバコの混じった口臭が、とんでもなく臭い。何も知らずに安眠する、奴の寝姿が、激しく憎い。しかし同時に何も知らない馬鹿な奴だと蔑むこともできた。
そっと、そっと、そぅーっと、僕はブリキ缶を開けた。これは事前に何度も練習してきていたので、難なくできた。
ブリキ缶を奴の頭の上に置く。缶の口と髪が触れるくらいに。
後は、待つだけ。
徐々に奴の体が缶に吸い込まれ出した。何度も何度も想像した瞬間だ。
とても静かに、奴の体はブリキ缶に飲み込まれてゆく。あの中で、空に溶けてゆく雲のように奴の体は霧散する。
ちゃんと見なきゃ、その結末を。ちゃんと見なきゃ、僕の罪を。
僕は、その覚悟が果たせなかった。気がつくと部屋の端に蹲って頭を抱いて蹲っていた。
藍色の部屋が薄いブルーに変わっている。どこからかアラームの音が聞こえた。
僕はベッドを見た。
小さなブリキ缶だけが、残っていた。
テーマ; 空に溶ける
5/21/2025, 3:26:15 AM