柚大

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 あの頃は、自転車に乗って何処へでも行くことができた。
 学校が終われば家まで走り、玄関にランドセルを放り投げ、愛車で勢い良く坂を上る。友人と合流し、路地裏を我が物顔で走り抜ける。暑さも寒さも気にならないほど、全身に浴びる風が心地よかった。自転車で走ること、それ自体が遊びだった。

 移動を億劫に感じるようになったのは、いつからだろう。大人になり、免許を取ってからは、自転車に乗ることもほとんどなくなった。毎日車の中で渋滞に苛つき、たまに電車に乗れば人混みに揺られて目を瞑るだけ。のんびり景色を見ることすら、減ったように思う。
 そんな私が子供の頃の記憶を辿って森の中を歩くことになるとは、思いもしなかった。

 既に辺りは暗い。懐中電灯で足元を照らしながら、静寂に耳を澄ませる。
 昔は、鳥や虫の声がひっきりなしに聞こえていた。時折、獣が枝を踏む音に息を潜めることもあった。だが、今は何もない。草木以外の命の気配が、まるで感じられない。皆、私という侵入者に警戒し、鳴りを潜めているのだろう。だがそれは、この二十年で人間という存在が彼らにとっての驚異になったことを意味する。
 変わったのは、私だけではないのだ。

 毎日通った駄菓子屋は、買い手のいない更地に。
 魚を捕まえた川は、土砂崩れで立ち入り禁止に。
 肝試しをした廃工場は、ショッピングモールに。
 思い出の場所は次々と姿を消し、一緒に遊んだ友人との関係も、今ではすっかり変わってしまった。
 唯一変わらずに残っているのが、この森だ。
 鬱蒼と繁る木々に隠された獣道。少し進んだ先の開いた場所に作った、二人だけの秘密基地。

 泥濘(ぬかるみ)に注意を払いながら、傾斜のある獣道を降りていく。足元に気を取られていると、何かが顔や手に纏わりつく。大きな蜘蛛が巣を張っていたようだ。どうやら暫くの間、人は通ってないらしい。新たに子供達が秘密基地を作っているかもしれない──そう思っていた私は安堵したが、同時に小さな寂しさも感じた。
 私が死ねば、この場所を知る者はいなくなるのかもしれない。

 大人の足で歩くと、当時長く感じた秘密の通路はあっという間に終わった。高い木々に覆われ、周囲から切り取られた広場。月明かりに浄化されているのか、少し湿り気を含んだ空気に心地よさすら感じる。夜に訪れるのは初めてだが、確かにここは私達の秘密基地だ。
 だが、枝葉で作った小さな隠れ場は、とうの昔になくなっていた。獣が荒らしたのか、雨風に晒され崩れたのか。どちらにせよ、その面影はどこにもなかった。二十年以上経っているのだから、当たり前だ。他の場所と少しばかり土の色が違うのが、唯一の名残だろうか。

 目を閉じて、当時のことを思い出す。
 実を言うと、あの頃の記憶がしっかりと残っているわけではない。この場所での出来事を思い出そうとすると、楽しかったという漠然とした感情が先行し、それが具体的なエピソード達に薄く靄(もや)をかけてしまう。この場所を見つけたのはどちらだったか、何故他の友人には教えなかったのか、いつから来なくなったのか──そうした疑問がふと浮かび、答えのないまま靄の向こうに消えていく。
 だが、それで良かったのだと思う。もし友人との記憶が鮮明に残っていたなら、私は今この場所を訪れることはできなかったかもしれない。美しい思い出のまま、記憶の彼方に追いやることを選んだかもしれない。
 
 私はゆっくりと目を開けた。
 何もない広場に一瞬、小さな隠れ家と、その中で笑う子供が見えた気がした。

 私にとって、ここは忘れられない場所だ。
 これまでも、これからも。



「まさか、またここに二人で来るとはな」

 肩に背負ったブルーシートに声をかけ、私は笑った。



『自転車に乗って』

8/15/2023, 2:33:22 AM