sairo

Open App

「どうして。どうして」

伸ばされる左腕。それに応える事はなく。
一歩、距離が近くなり。一歩、距離を遠ざけた。

「いや。いや。行かないで。行かないで…お願い、一人にしないで」

切願する言葉に首を振る。
慰めの言葉一つ告げられず、応えられない意味を伝える手段を持ち得ない事が酷くもどかしい。

また一歩、距離が近づく。
木々の合間から差し込む月の光が、目の前の白い少年の異様な姿を露わにする。
黒く澱んだ右眼。右腕と下肢は獣のそれ。
涙に濡れた金の左眼。細く白い女の左腕。

「ずっと一緒にいよう。ねえ、そうしよう。ねえ!ねえ!ねえ!一人は嫌。嫌い。嫌い…ああ、嫌だ。助けて。助けて…兄さんっ!」

途切れる事なく紡がれるのは少女の声音。最初に差し出した自分の、声。

「兄さん、どこ?どこにいるの?ねえ。ねえ。置いていかないで。行かないで。声。声が…ああ。ああ」

距離が近づく。晒された白の少年の姿が揺らめいて、姿を変えていく。
白から黒に。少年から青年に。

「あまり弟を泣かせないでくれ」

距離を離す為に下がる足より速く、彼の獣の足が距離を零にする。右腕を掴まれ、これ以上距離を取る事ができない。

「オマエが応えないのは、アレのせいか?オレ達からオマエを奪っていった鴉が望んだか?」

一つ、頷く。

「オレ達よりもアレを選んだか…違うな。名を呼ばれたからか」

ごめんなさい、と声なく伝えれば、腕が離れ宥めるように頭を撫でられた。

「謝るな。仕様がない事だ。オレ達に応えるなと、関わるなと望まれたのだろう?今のオマエの姿を見れば、誰しもがそう望む。それだけオレ達が望み、オマエが応えて差し出したものは大きい」

頭を撫でていた手が、差し出し失くした左眼を、喉を、左肩を撫でていく。

差し出したものが大きい。
応えるなと願う風も言っていた。どうして簡単に差し出すのかと咎められもした。
自分ではよく分からない。
声も、腕も、眼も。失くしても困りはしないと思っていたから差し出した。
声がなくても父と母に思いは伝わる。風は遠く、戻っては来なかった。腕も、眼も、二つあるものが一つになった所で然程変わらない。
そう思っていた。願う声をないものとする方が、余程苦しかった。

「相変わらずだ。まあ、オレ達も変わらないか。応えて、元の形を忘れてしまったのだから」

自嘲めいた笑み。
もう一度頭を撫でられ、そのまま数歩下がり距離が開く。

「なあ、鬼事をしようか。鬼役はオレ達が務めるから」

意味を分かりかねて首を傾げれば、黒の青年はくつりと嗤った。

「逃げるつもりだったろう?望みに応えるならば、それが最適解だ。だが、オレ達はそれを容認しない。逃げても追いかけて、必ず捕まえる。そうしたら」

金の瞳を歪め、くつりと喉が鳴る。

「そうしたら、オマエの足を奪おうか。望み差し出されるより、奪う方が今のオレ達には相応しい」

愉しげに、哀しげに。哄笑が夜闇に響き渡る。
嗤い声に混じる微かな鳥の鳴き声に、胸が苦しくなる。

「さあ、鬼事をしよう!どんなに逃げても見つけて捕まえるから。捕まえて、足を捥いで、鳥籠に入れてやる。小鳥に相応しい、綺麗な声を与えて。そうすれば」

何か伝えようと口を開き、声にならない吐息に口を閉ざした。
今の彼には届かない。伝える事ができない。

「名を呼べるだろう?オレの、オレ達の名を!名があれば、二人に成れる。こんな、醜い化生の姿から解放されるっ!だから、なあ、なあ!」

嗤い続ける姿に、少しだけ失った声を恋しく思った。



地を駆ける。草を掻き分け。木々の間をすり抜けて。
呼ぶ声が聞こえなくなるまで、只管に。
誰の願いに応える事が最良なのか、分からない。応えない選択肢はもう選べない。
今はただ。
終わりのない鬼事を続ける為に、地を駆け抜けた。



20240609 『岐路』

6/9/2024, 2:31:19 PM