見知らぬ街
太陽の光を反射する眩しい白い壁。
どこかの店から香る爽やかな柑橘の香り。
格子の嵌った窓辺から零れるように咲き誇る名前の知らない花々。
抜けるような青空の色は、僕らが出ていったあの街のものよりも濃く高く。延々と広がるそれがあの陰鬱とした場所と繋がっているとは到底信じられなかった。
見渡す限りの異国情緒はすっかり遠くに来てしまったのだと思わせる。
左手に繋いだ手はじっとりと汗ばんでいて、けれども知らない場所への緊張と高揚が少しの隙間が空くことすら拒む。
離れ難い気持ちをそのままに絡めた白い手を引き寄せると、物珍しそうにあちこちを見ていたブルーグレイの瞳がパチリと瞬く。そのまま喜びを隠しもせず緩く弧を描いたそれに、沸々と湧き上がる好意が口から飛び出しそうになった。
それは言葉一つすら伝えることに臆病になって、随分遠回りをしてきた以前ではあり得ないことで。ああ自分は途轍もなく浮かれているのだと自覚する。
日差しのせいにはできないくらいに耳が熱くなって、誤魔化すように汗を拭った。
吹き抜ける風は太陽によってよく熱せられていて、頬にまで達しそうな火照りを落ち着かせてやくれない。
喉元を擽る浮ついた言葉たちをどうにか飲み下そうとしながら、少しでも熱を冷ますべく襟元で扇いでいると、心配そうなブルーグレイがこちらを見ていた。
「あついね」
ごくりと喉を鳴らして問い掛けに頷けば、水色の幌屋根が鮮やかなジューススタンドへと手を引かれる。
ふわふわと揺れるブロンドが太陽の光を浴びて七色に輝く眩しさに、目を細めながら後を追う。場違いな革靴が石畳を叩く音すら弾んで聞こえた。
店番をしていた若い女性は、目が合うと朗らかな笑顔でこの国の挨拶をする。
ぎこちなく同じ言葉を返しながら、レモネードを二つ注文した。
けれど僕らが唯一話せる、世界共通語と言われているそれはまるで伝わらない。女性の話す言葉も挨拶以外はまるで聞き取れなかった。
困惑をあらわに口元をつつくような仕草をしている女性に、僕らは顔を見合わせる。
メニュー表もなにもない店先で、看板に描かれた檸檬を指差してみたり、飲み物を飲むジェスチャーをしてみたり。思い付く限りの身振り手振りでどうにかレモネードを二つ注文する。
指で伝えられる金額に頷きながら財布から紙幣を取り出して、お釣りを受け取った。金だけはいくらか両替していた。
冷たいレモネードを受け取りながら、互いの健闘を称えるように三人で笑い合う。
ふわりと揺れたブロンドの方を見やれば、笑顔のまま辿々しく女性に何かを伝えていた。耳馴染みのない言葉はきっとこの国の感謝の言葉なのかもしれない。
真似をするように拙くその言葉を口にする。
返される女性の言葉はやはり知らないもので、けれども多分よく知る意味の言葉なのだろう。
白い壁がつくる道の先。微かに香る潮の匂いに向かって歩きながら、まるでそれが当然かのようにどちらからともなく指先を触れ合わせる。
今日だけで今まで手を繋いできた全ての時間を合わせたより、長く手を繋いでいる気さえする。
買ったばかりのレモネードを一口飲み込んだ。想像より酸味のやわらかなそれは、あの街のものよりずっと甘く感じた。
柑橘の爽やかな香りが潮の匂いに飲み込まれて、波の音が聞こえ始める頃。カモメの群れが頭上を飛び去った。
合わさったブルーグレイの瞳がよく見知った好奇心の輝きを宿す。緩やかな下り坂を、逸る心のままに速まった歩調で下っていく。
緩やかなカーブを越えた先。唐突に白い壁が途切れた。
ぶわりと一際強く吹き付けた潮風が、前髪をさらって通り過ぎていく。
抜けるような空の下で、陽光を照り返して燦然と輝く穏やかな青がどこまでも続いていた。
先ほど頭上を飛び去ったカモメの群れは遠くの方で小さな黒い点になっている。
海底から鳴り響く波の音に胸の奥が共鳴するように震えた。
白く塗られたポールだけが隔てる向こう側。それに圧倒されたように、僕らはしばらくその場に立ち尽くしていた。
額を流れ落ちた汗の感触に意識が戻って来る。
左手の先に繋がった白い手の持ち主は、まだ向こう側から帰ってきていないようだ。
パシリパシリとゆったり瞬く睫毛の先が光を弾いて煌めく。
青に染まったブルーグレイは、そこに小さな海が嵌め込まれているみたいだった。
やがてパチパチと瞬きの回数が多くなって、ブルーグレイがこちらに焦点を結ぶ。
「ずっと見てたの?」
柔らかな頬が緩やかに持ち上がって、照れたような笑みを形作る。
見入ってしまっていたことに気がついて、喉に気恥ずかしさが駆け抜ける。紛らわすようにレモネードを流し込んだ。
「君が好き」
飲み込みきれなかった言葉の一つが、炭酸の勢いに乗って舌先で弾けた。
隣で同じようにレモネードを飲んでいた白い頬がみるみる真っ赤に染まりあがる。
少しの間惚けたような顔をして、慌てたようにその手元がもう一口分傾いた。
ごくりと喉が動いたすぐ後に、その舌先でも檸檬の香りのする言葉が弾けた。
誰も僕らを知らない場所で、知らない言葉に囲まれて。
それでようやく僕は怯えずに心の内を曝け出せる。
繋いだ手を強く絡み合わせて、触れ合う肩に温かな重みを感じながら、空と海が混じり合う水平線のその先を見つめた。
そのまま手のひらの熱が氷を溶かして、薄くなったレモネードの炭酸が弱くなるまで。
すっかり同じ温度になってしまった汗ばむ体を寄せながら、檸檬の香りを纏った舌先に、互いにずっと飲み込み続けてきた言葉たちを乗せあっていた。
8/25/2025, 9:54:20 AM