そっとドアを開ける。少しだけ。隙間から顔を出して。
くん、と鼻に届くのは体内に膜を張るようなこってりとした匂い。幼稚園の時分にくしゃりと顔を歪めたのを思い出す。
慣れればどうってことないのだけれど、入った瞬間は異世界のような気分。
無言のまま眼前の場景を見つめて。
ブルーシートの敷かれた上。丸椅子に座って、ぐちゃぐちゃのパレット。水に漬けず、カピカピ寸前の筆。衣服を覆う割烹着は、袖から裾から何から何まで絵具まみれ。カンバスとどちらが絵なのか。
肌や細くふわりとした髪も例外ではない。頬やひたいにまで。
それらを拭うことなく、楽しそうに縦横無尽。
まるで形を成さない抽象画――とも言えるかどうか。わたくしには分からない。
シートの上や壁に立てかけてある様々な絵。
赤ワイン、一輪の花、白い手袋、夜景のハイウェイ、ピンクの鯨、ケチャップ、宇宙飛行士、背脂のラーメン、ハマったあの子――――などなど。
他にも、形のない色の羅列や、どれとも形容しがたいものもある。
どれもこれも、あなたが描いたもの。
「……ふんふん……、んふ」
鼻歌交じり。躍らせる筆先から、クリームの角を立たせるような絵具の置き方。それが何度も繰り返されて。パレットに出されたすべての絵具を原色のまま、混色して、とにかくほとんどすべての色を使ってある。
それでも絵として完成されていて。
ぺちゃり、と満員のカンバスに新しい色の付いた油をつけてゆく。他の色を巻き込んで。
筆を離さないまま、あなたは動きを止めた。
「ふぇっ……」と溜めて。
埃か鼻が痒かったのか、「くしっ!」とくしゃみを。
ずりっ、筆がズレて。
「……っず、……まぁいっか。これもすてき」
また「ふんふん」と鼻歌がつづく。
声が漏れないように手の甲で口許を押さえて、思わず笑ってしまう。なんて前向きな人!
わたくしはあなたの描く感性が好き。
たのしげにしているあなたの背も。それに踊る左腕と、無意識にリズムを取る足先。
その動きで流れを変える空気。それらで成り立つ、あなたの自室というこの空間が。
描き上げた絵をわたくしに見せて、感想をせがむときがある――ほとんど。色がすてき、筆の運びが繊細大胆、この造形が好き。
いろいろと悩みながら言葉を贈る。
喜ぶあなたは、絵から受け取るものをわたくしと共感したいのではなく、絵自体に感想を持ってほしいから聞くのだと。
わたくしはいつもたくさん感じて、それをあなたに伝えたいのに、「好き」以外の言葉はどうにも不自由で。
いつか言っていたことを思い出す。
「ぼくの絵はとってもタイムリーなの。だから、きっとねぼくの横で、ぼくが描くのを見ているのがいちばん。口も滑るようになる。だって、油絵だもの」
くすくす、と。
だからゆっくりとあなたの背中を見てから、
「入ってもいいですか?」
「んふ、どーぞ! あのね、丸椅子も買ったの。段ボールじゃ座りにくかったでしょ」
たくさんあなたにわたくしの言葉が、思いが、感性が届くように、あなたが用意してくれた丸椅子に座るのです。
#あなたに届けたい
1/31/2023, 9:54:27 AM