池上さゆり

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 夏の匂いが広がる月夜を眺めていた。雲ひとつない空を眺めては、彼氏の帰りを待った。
 月が明るい夜、私の彼氏は森に帰る。
 なにをしているのか、なぜ帰るのか。なにも知らないけど、きっとそこに愛する家族がいるのだろうと思う。その証に彼はいつも嬉しそうな、幸せそうな顔をしてこの家を出ていく。今日も、月が沈む頃に帰ってくるのだと思って、月が見える窓際で読書をしていた。
 だが、この日は違った。途中で雨が降り出した。始めは小ぶりだったが、だんだんと雨足は強くなっていって風も強く吹き荒れた。大丈夫だろうかと心配していると、玄関のドアが開く音がした。風呂場からバスタオルを持って走った。玄関にいたは、熊と人間が混ざったような彼氏だった。顔の半分が人間で、もう半分は歯を剥き出しにした熊。身体も胴体は人間で家を出る時に着ていた服はそのままだったが、手足が毛だらけの太い動物の形になっていた。
「どうしたの、大丈夫? これで身体を拭いて」
 なぜか、驚きはなかった。この辺りは熊が出没することが多い。森に帰る意味を私はどこかでわかっていたのかもしれない。
「家族が、撃たれたんだ。殺された、猟師に殺されたんだよ!」
 感情が荒ぶると、人間の部分が少なくなっていく。
「落ち着いて、大丈夫だよ。ここだったら誰も追ってこない。誰も撃たないから。私も通報しない。落ち着いて、ゆっくり深呼吸して」
 彼は膝から崩れ落ちた。動物の毛が体内に吸収されていく。守れなかった。そう言って泣く彼を抱きしめることしかできなかった。
 その日から、彼は森に帰らなくなった。理由は明白だった。地元のニュース番組で「森の熊を三体仕留めることに成功した」と流れていたからだ。おそらく、全員彼の家族だったのだろう。
 屍のようになった彼にできることはなにもなかった。愛しているのに、彼の本当の家族になれない苦しさを噛み締めていた。

3/7/2024, 11:42:39 AM