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谷間の雪は夏でも溶けないのか。

どうしてそんな話になったのか。
覚えているのは、洞窟の匂いと君の顔。

あの夏、僕は海辺に君を誘った。

脊椎カリエスだからという君を、無理やり外に連れ出した。融通のきかない君の親を、困らせてやりたかったからというのもある。

真昼なのに、暗がりの気配のある空だった。

僕たちは砂の上に腰かける。
海に沈みこむ鈍色の光が、君の頬のやつれを浮かび上がらせる。

しばらくそうやって眺めていたけれど、
もっと君をあやしげなところに連れていきたくなった。

遊泳禁止エリアの岩場に洞窟があり、
僕はそこへ行こうと君の手を引いた。

暗がりの潮溜まりに足をつけると、君の肩が震えた。海水の冷たさに馴れていないんだろう。

洞穴はひやりとして狭かった。
晴れの日に雨宿りをしているような、妙な心地だ。

ここまでおとなしかった君が、「帰りたい」と初めて呟く。


「夏なのに凍えるようだよ、ここは。海じゃなくて冬の山だ。」

「何だよ、いつももっと暗くて湿っぽくて、それこそ雪山みたいなところに閉じ籠ってるだろ。」


僕が言うと、君はそっぽを向いてしまった。


「母さんにこのことが知られたら、君のせいにするからな。」

「かまわないよ。」


そこで僕らは黙り込んでしまった。

僕には君の背中が歪んでいるようにはみえない。
そう言うとまた怒るんだろう。

この背骨のでこぼこを触ってみろと、
君も同じようなのかと、その琴線に触れてしまうのだ。これ以上母を苦しませないために。


岩から伝う雫が足元に落ち、静寂に波紋を描いてゆく。


──谷間の雪は夏でも溶けないんだろうか。


それは多分君の言葉だった。でも、僕も似たようなことを考えていた気がする。

切り取られた夕闇の海を臨みながら
君はもう、ここにいないような人の気がしてならなかった。

君の横顔は夜の雪山のように厳かで、
吐く息すら白くみえた。


                 『白い吐息』


12/7/2025, 3:25:48 PM