「形のないもの」
静かに雨が降っていた。
なでるように、音もなく。
ゆるゆると雲を絞るかのように降る。
しとしとと、葉を濡らし、脈を伝って地に雨跡をつけた。
それはまるで、木漏れ日のようで。
落ちた雨は斜面を伝い、水同士がくっついていく。
それは同心円状に広がって。
何もない日々に、鮮やかな色を付けていた。
雨が降っていた。
雲は黒くなく、ただ普通の白い雲に見えている。
それはまるで、ぞうきんを絞って、水を滴らせるような。
重さで、重力で、落ちてしまったというような。
そんな雨だった。
頬に、水が当たる。
部屋にいたというのに、窓から雨が粒となって濡れた。
ツーっと伝って、首筋に当たる。
涙に様になってしまったな、と苦笑する。
でもそれは的を射ていて。
自分の心を再現しているようだった。
「存在って何だろう」
そう、君に聞いたことがあったか。
何年前だろう。分からない。
君はどう答えたんだったか。
考えていくうちに、その記憶は徐々に鮮明化してきて。
まるで目の前に君がいるかのように。
「存在は、概念としてあるもの、だよ」
君は薄い笑みを浮かべた。優しい笑みだった。
「概念として、考えるもの。考えられるもの」
僕は考え込むように下を向き、手を口に当てた。
存在の意味は分かる。そこにあるもの。そして、こと。
でも君の答えが知りたかった。
哲学的なことを言ってくれる君の答えを。
でも今回は。
「……どういうこと?」
意味が分からなかったのだ。
概念。考えられるもの。どういう意味か、分からなかった。知りたかった。
君は静かに、口に弧を描く。
「存在は、私たちが考えることのできるものを指すと思う」
「考えられうるもの。想像できるものも含めて、全部」
その笑みは、まるで慈しむようで。
「見えるもの全てじゃあない。感じるもの全てじゃあない」
そう、断言する。
「それを、存在と言うんだよ」
子供に言い聞かせるような、まじめな顔だった。
でも、それを言った瞬間に、頬が緩んで。
「ね?」
どう? 分かった? そう確かめるかのように君は聞いた。
その言葉に僕も笑みを浮かべる。
その笑みはずっと見ていたかった。
「うん」
そう、言い切った。
何年前のことだっただろう。
あの頃から、君に随分と会っていない。
何もない無機質な生活を永遠に送っているようだった。
変わらない生活がこれからも続くと思っていた。
でも、君のことを思い出して。
僕はやっぱり君に会いたいのだと実感する。
君との記憶は、頭にこびりついたように、離れない。離さない。
僕からしたら、君こそ永遠に変わらない存在で。
形のない、想像でしかなくても、それは存在で。
ただ、夢のような幻でも、会いたかったんだ。
そんな気持ちがずっと渦巻いている。
雨はまだ、絞り込むように、降っていた。
9/25/2023, 7:54:47 AM