よあけ。

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自分で書いた文章を時折読み返したりする。自画自賛であり、自分で書いた文章だから当たり前といえば当たり前だろうが、好みにピッタリで、いつもじっくり読み返してしまう。中には「なんか違うな」というものもあるが、なんだかんだ好みだ。

心に空いた形にすんなりはまって、じんわり馴染んでいく感覚がする。時々過去の自分に衝撃を受けたりもする。

好ましい文体でいつも書いているし、己の感性も好ましいので、読み返して「この文章いいな」と思うのも自分の場合当然だと思う。しっくりくる、何より好きだ。

その都度修正したくなったり付け加えたくなったりもする。もっとこう表現にしたほうが心地よいだとか、もっとこういう言葉を使ったほうが綺麗だとか、リズムがどうとか、ざらざらするから滑らかにしたいとか、そういうもの。

「変わらないものはない」というものの一つに「自分」を挙げられると思う。変わっていないように感じても1年前の文章は今とは違う感覚で書かれているなと思うし、数ヶ月前のものでも今の自分とは違った感性をしていると感じることも多々ある。

変わっていくことは嬉しいことだと私は思う。違った自分でいられるから過去の自分を他人みたいに思えるし扱える。自己を他者として扱い時間を超えた会話をしているなんて、究極の対話だと思わないか?その瞬間が好きだ。自分と語り合えるような感覚がするあの瞬間が好きだ。

断りを入れておくが、私は自己肯定感が低く自信もない。己の感性が多くの人に通用するとも思っていないし、熱弁する気もない。自分のことが好きかと問われると「いいえ」であり自分のことが嫌いかと問われると「いいえ」だ。自分に対して好き嫌いという概念がそもそもない。どれだけ頑張ったつもりでも人の役に立てず、見捨てられ、理解を得られることはなく、孤独であるのには違いない。そんなところも含めて自分が好きだとは口が滑ったとしても言えない。偏屈でいつもおかしな妄想ばかりしている己が素敵だとは思えない。

それが、文字にした途端強烈に面白く感じるのだ。「こいつの感性は心底面白いな!」と他人事のように笑える。もちろん純粋に素敵な話を書くなと思うこともある。

本当に自己肯定感が低くて自信が無いのか?そんなに自分の文章が好きなのに?嘘ついてるんじゃないか?と自分でも疑問に思うし不思議だ。因みに自分のコピーを作れると言われたら速攻で作るだろう。己はとても面白い感性を持っているから是非会話してみたい。きっと話が弾むぞとそんな自信はある。だが社会的な自己肯定感や自尊心や自信は皆無だ。これっぽっちもない。嘘だったらきっと今頃こんなことになっていないと思う。

とはいえ結局己の文章と感性を好きだとはっきり言えるのだから「好き」なのだろう。……恐らく。いや、書いているときは好きではないし面白いとも思ってないな。書き終えて数日後に見返すと好きだとか面白いだとか思えるだけで、今この瞬間は別にそんなに好きでもなく、どちらかといえば面倒臭くて鬱陶しくてダルいと思っている。それでも書いてるけど。あまり枠組みに当てはめるものでもないのかもしれない。これもきっとそのうち受け止め方が変わってまた違った思考を近い将来しているだろう。きっと変わるものだ。

閑話休題。文章にして3日くらい経つと他人事のように切り離して扱えるから楽しいのだ。脳内で別の自分と楽しく会話ができているときのような感覚。己が書いた文章は己の究極の理解者となってくれるし、究極の理解者となれる。これ程素晴らしいものが魅力的でないわけがない。

「時間を超えた対話」というのは本が証明していると思う。今よりうんと昔に執筆されたものが今も尚読み続けられていて人々の中で生きているなんて、考えただけでも夢がいっぱい詰め込まれている。時間というより「時代を超えた対話」だろうか。

私が時代を超えることはないだろう。しかし数年単位の時間旅行ができるというなら、こうして書き留めておきたいものだ。

今とは変わっているいつかの自分と対話をしたい。

12/26/2024, 6:01:50 PM