【ハッピーエンド】
度重なる様々な社会的要因によって、国民の生活水準が下落した少し未来のこと。自殺率は最大を叩き出し、離職率や無職の人間の数も毎年更新され、中小どころか大企業ですら倒産してしまったような頃のこと。
追い詰められた時の政治家が提案したある“保護プログラム”が物議を醸したが、国民に根付いてしまった。
「検査完了です、七十パーセント進行。記録の上、ご自身の部屋へどうぞ」
「……ども」
多千花菜白は検査用のガウンを着込み直した。指の動きは短くなってきた分覚束ない。ガウンが必要ないほど、全身はもう獣毛に覆われていた。胸にあった乳首が腹に動き、いくつにも増えていたのに気付いたのはいつ頃だったろうか。短い尻尾も生えて座りにくいことこの上ない。耳も随分上の方に動いてしまった。
“低適性者保護プログラム”の仕組みは、十歳から二十歳までの間に何度もある適性検査で、現在想定される産業への適性、及び社会の構成員としての適性を試される。より平易に言うなら、何かの職業に適正があるのか、過剰な悲観性や他者への加害性が一定値より低くないかを確認するものだ。値が低ければ低いほど「適性がない」という判定になる。
多千花は、職業の適正は程々にあった。しかし就職して二年もしないうちに、元々あった口が上手く回らないところや、表情の暗さをあげつらい、クビにすると恫喝され続けて心身を持ち崩した。改めて構成員適性を検査されたところ、社会性に著しい低適性を記録してしまった。更生プログラムへの参加か、保護プログラム適用か。選ぶことができたが、多千花にはもう、社会に人間として生きる気力はなかった。
“低適性者保護プログラム”は、人間を一定の哺乳類に変えることで、愛玩動物や家畜としての利用価値を見出し、社会参加させるものだ。四回の講座受講と、二親等までの家族の同意を必要とするが、多千花には音信不通行方不明の母親しかいなかったので、自身の同意だけで済んだ。プログラムに参加すると、変異が完了するまでは最後の監獄と呼ばれる保護プログラム実行施設で生活することになる。
職能に関する資格を取ることや、政治家としての活動など、社会参加のためと思われる活動はできないが、読書やオンライン動画の閲覧、ゲームなどの各種娯楽は許され、また変化の度合いが七十五パーセントを越えるまでは、談話室の利用も可能と、最後の人生を謳歌することが出来る。勿論そこで満たされない者もいるが、最終的に行き着く先は同じだ。
多千花も読書に勤しんでいた。変異後も飼い主となる人間が許可すれば、こうした娯楽に触れることは可能だが、それでも能動的にできるのは今のうちだと、長いこと積んでいた本を読破している。時折耐え難い空腹に襲われ、食堂で配給食を貪っているが、それは変化の度合いが深まれば深まるほど起こってくることだった。好きなだけ読み、好きなだけ食べ、眠る。毎日投与される薬を受け入れることで苦しみは薄れた。一度だけ、多千花を職場で恫喝した上司が警察官に付き添われて面会に来たが、どうやら多千花にしたことが社会的に罪に問われることになったらしい。それでも、動悸が止まらず、自分の方に付き添ってくれた保護師が手を繋いでくれていた。
「検査完了です。九十パーセントを越えました。これから居住を観察檻へ移します」
はい、と答えようとした声は、うぉう、という獣の声だった。多千花は鏡に映る自分を見る。少し前からまっすぐに立てなくなり、がに股でのろのろと歩くしかできなくなった。もうすぐすべてが終わると思うと、そんなのろのろ歩きでも不満はない。太くなった首に電極付きの首輪が取り付けられて、いよいよ獣になるのだと思うと、安心があった。
「シロ、シロ起きて」
優しい声に起こされる。薄くまぶたを持ち上げると、時乃が「おはよ」と声を掛けてきた。
「学校行くよ」
シロの主人となったのは、ある一家だった。不登校になった小学生の娘の時乃のお守りとして選ばれ、寄り添って生きることになった。時乃はシロを可愛がり、ある日散歩に連れ出したときに、いじめをしてきた面々と鉢合わせて、彼らが脱兎の如く逃げたのを見て、シロを学校に連れていくと言い出した。
“保護プログラム”によって変異した半獣は、その知能が人並であることから、盲導犬などの役割につくことも多く、また主人となった人間と、対象施設等の同意があれば、同行することもできた。
何もできなかった自分が、一人の女の子を救えてるかもしれない。それだけで、シロは己が人間の生を終えたことに、悔いなど一つもなくなってしまったのだった。
3/30/2023, 1:10:17 AM