ミミッキュ

Open App

"降り止まない雨"

 急に僅かな頭痛を覚え、顔を顰める。
 程なくして室内が薄暗くなった。
 カルテの整理でパソコンのディスプレイを凝視していた目を離し、キャスターの乾いた音と椅子の軋む音を診察室に響かせながら窓に近付く。
 窓の傍に着いた瞬間、雨がパラパラと音を鳴らしながら降り出した。灰色の雲が、窓の外に広がる空をすっぽりと覆い隠している。
──今日雨が降るなんて聞いてねぇ。通り雨か?
 すかさず立ち上がり、診察室の向かいの処置室の窓に近付き、空を見上げる。
 こちらも同様、灰色の雲が空一面に広がっている。顔の角度を変えながら空を見るが、灰色の空が広がっているだけ。
 すると、音が先程より幾らか強く、早くなった。窓を叩く雨粒も、先程より大きい。
──予報が外れたか……。
 診察室に戻って再び椅子に座り窓の外を眺める。
 ふと、数十分前に帰宅した患者の姿が脳裏に浮かぶ。
──あの人、大丈夫だろうか。雨に降られる前に家に着いてたらいいけど……。
 続いて、前足を器用に使って自身の顔を擦るハナの様子が浮かんだ。
──そういえば今朝、ハナが顔を洗っていたな。猫が顔を洗うと雨が降るってよく聞く。……今度からは天気予報よりハナを信じた方がいいな。
 そんな事を考えながら、手を伸ばしてデスクの上のマグカップを取り、コーヒーを啜る。一口啜るとマグカップをデスクに置き、再び窓の外に視線を向ける。
 そして再び記憶が脳裏に浮かぶ。
 その景色に、思わず再び顔を顰めた。先程よりも眉間にシワが寄る。
 思い起こされた記憶。忘れる訳が無い。《あの日》の記憶。
 真っ暗闇の空。激しく打ち付けてくる雨。その雨にだんだんと体温を奪われていく感覚。アスファルトに膝を着く音と呼吸音をかき消し、まるで自身の存在を消すように鳴り響く雨音。睨みつける視界の先の、夜闇と雨の中に消えゆく者の背中。
 《あの日》のリベンジを果たして、もう何年も経つ。それでも、《あの日》は一生忘れられない。
 それまでの戦いでの負担が積み重なってボロボロになった身体を見て見ぬふりして、それと我儘と反抗と自身のあまりの幼稚さで、一生をかけても償いきれない《罪》を犯した日。
 良いように利用されて起こった事だとしても、最終的には自身の力不足で起こした事。その事実は消えない。
 その記憶に付随して《あの日》のすぐ後、自暴自棄になった自身が浮かぶ。
 ずっと耳の奥で《あの日》の雨音が響き、意味が無いと分かっているのに耳を塞いで縮こまる自分。何度も過呼吸になり、息苦しさに顔を顰める自分。雨が降る度に酷い頭痛を覚え、痛みにのたうち回っていた自分。
 《あの日》以来、幻聴と幻覚、悪夢に苛まれ、その度に過呼吸を起こすようになった。
 心臓の手術後それはめっきり無くなったが、悪夢は今でもたまに見る。過呼吸を起こさないだけマシだ。
 そして、再び記憶が切り替わる。
 降りしきる雨の中、消滅する瞬間。
 あの時の声と、三人の痛々しい横顔。
 横顔を見て、五年前唯一の友が消滅する瞬間がフラッシュバックした。その日の夜は酷い悪夢に魘され、起きると額に酷い汗が浮かんで顔を伝ったのを思い出す。
「はぁ……」
 小さなため息を零す。
 雨の日はろくな事がない。嫌な記憶が思い起こされるばかり。
 色々な感情が混ざって胸の奥に溜まっていく。ぐちゃぐちゃに混ざった感情が溢れてしまいそうで溢れない。スレスレな状態で胸の中を、頭の中を揺蕩う。
 予報外れの雨はまだ止まない。まるで自身の心模様と地続きになっているようだ。
 雨足は強いまま、一向に止む気配がない。
──このまま降り続いてくれたら、雨に慣れてこんな気持ちにならなくて済むのに……。
 そんな事を考えながら椅子ごとデスクの前に行き、切り替えの為にマグカップを持ち上げコーヒーを啜る。カフェインが、わだかまっていた感情を幾らか希釈してくれる。冷えてしまっていたが、気持ちを切り替えるには十分だった。
 そしてマグカップを置き、カルテの整理の続きを始めた。

5/25/2024, 2:01:25 PM