結城斗永

Open App

このお話は連続小説『過ぎ去った未来』の第四話です。前話までをまだお読みでない方はそちらからどうぞ。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
掌編小説『過ぎ去った未来』第四話

 坂部は青い空を流れる雲に、自分の行く末を重ねながら、公園のベンチに根を張りそうな自分を奮い立たせた。
 ――こうしちゃいられないな。
 ただただ無責任に生きたいと願って、この時代にやってきたつもりだったが、坂部の心にはいつしか罪悪感が芽生えていた。社会に出てから培ってきた責任感というものが、若さ故の怠惰を許すまじとする。

 幸いなことに、今の坂部には三十年前には考えすら及ばなかった経験と知識とスキルがある。それをこの時代で活かさない手はない。
 坂部はその日から、まるで入れ替わった魂が覚醒したかのように勉学に励んだ。営業で培った人付き合いのスキルを存分に活かして、大学での友人関係も大きく広がっていった。

 ダラダラと過ごしていた時とは違い、時間が流れるように過ぎていく。だが、以前――この時代に来る前のような圧迫感や焦燥感はなかった。むしろ軽やかに動く若い身体と、幾分物覚えのいい頭のおかげか、希望と未来への期待感が坂部の挑戦を後押しした。

 時はITバブルの真っ只中。この波に乗らない手はない。坂部は意を決して、大学の友人数名とベンチャー企業を立ち上げる。
 坂部がこの時代に来る前に『営業部長』として培った、人間関係の隙間を泳ぎ切る処世術と、未来から持ち込んだ時流を読む目。その二つが噛み合った時、会社は爆発的な成長を遂げた。

 三十歳になるころには、社員も二十名ほどに増え、坂部の会社は『時代の寵児』として雑誌のインタビューなども受けるほどにまで大きくなった。
 しかし、会社が大きくなればなるほど、その道のりは険しくなっていく。ライバル企業による容赦ない引き抜き、信頼していた側近の裏切り、そしてリーマンショックのような、個人の努力では抗いようのない世界的な金融危機。幾度と崖っぷちに立たされ、倒産を覚悟し、一晩で白髪が増えるような夜を何度も経験した。

 かつての怠惰だった二十歳の坂部であれば、最初の逆風で早々に看板を下ろし、酒に逃げていたに違いない。五十年を生きた男の胆力が、その荒波に立ち向かうための大きな盾となったのは言うまでもない。

 気づけば、坂部の周りには各界の重鎮や政財界の有力者が集まり、彼の一言で株価が動き、一国の経済が左右されるほどの巨大な人脈の網が張り巡らされていた。かつてしがない部長として頭を下げ続けていた男は、今や世界的にその名を知らぬ者はいない、頂点の大企業のトップにまで上り詰めたのである。

 そして五十歳。坂部は、都内の一等地に建つ高層ビルの最上階から東京の街を見下ろしながら、とうとうここまで来たか、と感慨に浸った。
 上司と部下の間で疲弊していたあのしがないサラリーマンの坂部はもうどこにもいない。以前にも増して経済力と精神力を備えた、まさに『成功者』の看板を手に入れたのであった。

 ふと、あの『たいむましぃん屋』のことが頭をよぎった。この三十年間、不思議と一度も思い出すことはなかった。そう言えば、この時代に来る前に店主がなにやら重要事項とやらを話していたな、と今さらながらに思い返す。
 ――転送先からは戻ろうと願えばいつでも戻ることができます。ですが、皆さま何故だか、向こうに行かれた時点でそういった意識をお忘れになるようです……。
 まさに店主の言っていた通りだったな、と坂部は自嘲の笑みを浮かべた。そこに後悔はない。これだけの成功を手にしたのだ。むしろ、元の世界に戻るメリットなどひとつも感じなかった。店主は、長居はお勧めしない、とも言っていた気がするが、それも今となればどこ吹く風である。
 もうひとつの重要事項は何だったか――。
 
 その時、まるでパソコンをシャットダウンした時のように、坂部の意識はぷつんと途切れた。視界が真っ暗になり、辺りの空気が急激に温度を落としていく。
 冷たい風が身を切るように吹き付け、体から生気と水分が抜けていくような、気味の悪い心地が全身を包み込む。

   ❖

「……っが、……んだ、ごれは……」
 声を出そうとして痰が絡んだように喉が詰まった。目の周りに貼り付いたヤニの塊で、思うように目が開かない。皮脂と汗が酸化したような刺激臭が鼻の奥を突き上げる。
 坂部は公園の端っこで、ボロボロの段ボールを毛布代わりに身にまとい、冬の冷たい寒さのなかで震えていた。ふと見下ろした手指には深い皺が刻み込まれ、所々赤切れた皮膚から血が滲んでいる。
 
 そこは意識を失った時とはだいぶ様相の違う世界だった。薄暗い雲に覆われた公園を、見慣れない服装の人々が歩く。頭にゴツめのサングラスか、あるいはVRゴーグルをもっと小型にしたような器具を身に着け、ぎこちない動きをする犬のようなものを散歩させている者、着飾ったドローンのようなものと並んで歩く者もいる。

 どうしてこんなことになった、という困惑と同時に、『たいむましぃん屋』の店主が言っていた、あとひとつの重要事項が頭をかすめた。
 ――もともといらっしゃった過去のあなたは、決して肉体を捨てたわけではありません。
 あの時、坂部が引っかかりを覚えた唯一の言葉。

 そう言えば、もともとこの体の中にいた『坂部の意識』はどこへ行ったのだ? まさか外に投げ出されてそのままということはあるまい。
 結実させたくない不安が、頭の中でパズルのように組み上がり、見たくないイメージを否応なくひとつの答えとして導き出す。


 『過ぎ去った未来』第五話に続く
 

1/27/2026, 10:03:23 AM