すず

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 もう何年前のことでしょうか。わたくしは横須賀にあるカフェーコリウスでお給仕の仕事をしておりました。小さなお店ではございましたけれど、窓からは格好良く横須賀港が見えて海軍学校の生徒の方などもよくいらしておりました。
 丁度今のような時分でございます。シトシトと長雨が続いて店も閑散としていましたので、もうお客も来ないだろうから今日は閉めようか、などと店長が言っていた時です。カランとベルが鳴って店に一人の青年が入ってまいりました。
 ゴム引きコートからはポタポタと雫を落として髪もぺたんと潰れておりましたのに、すっと通った鼻梁と理知的な瞳がハッとするほど美しかったのを覚えております。青年は「ヤア開いてるかい?」とわたくしに訊ねてきました。ですが十五、六の娘だったわたくしはすっかり上がってしまって顔を真っ赤にしたまま一言も喋れなくなってしまったのです。そんなわたくしを責めもせず、青年は珈琲を一杯注文して窓辺の席でゆっくりゆっくり飲んでから、帰ってゆきました。
 その日以来、青年は度々店にやって来ました。初めは熱い顔をお盆で隠すばかりだったわたくしも、次第に青年の気さくな態度に絆されて普通のようにお話しできるようになりました。それでも青年は気障なところがありましたから、わたくしはしょっちゅうドギマギさせられておりました。
 ある日など、隠れた桜の名所を知っているから今度の春には見せて差し上げましょうと申し上げたら、君の案内なら桜もさぞ綺麗に見えるだろうねと歯の浮くようなことをさらりと言ってのけたのです。こういうとき、わたくしは決まってお返事に困ってあたふたとみっともない姿を晒しておりましたのに、青年はニコニコとそんなわたくしを眺めているのでした。
 しかし桜が咲くよりも少し早く、その青年はぱたりと来なくなってしまいまいました。おそらく彼は海軍学校の生徒で、三月を境にご卒業だったのでしょう。そのすぐ後、わたくしの方でも実家に呼び戻されてしまったので横須賀からは離れてしまいました。
 呆気ない少女時代のお話でございます。それでも、桜の季節になる度にこのことが思い出されるのです。

お題 「初恋の日」

5/7/2024, 5:47:10 PM