長月より

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 高宮早苗は割と脆い。脆いというか体が弱い。いつもテンションが高くて退屈が嫌いで面白いことは率先してやりたがるやつで、元気いっぱいのイメージが強いのだが、見かけだけだ。あんまりテンション高く過ごしていると次の日には熱を出す。ひどい時にはその場で吐く。月に一回はしんどそうにしている時もある。精神は逞しいのに身体は脆いのだから厄介なことこの上ない。

 そのため、小学校の頃はよく遠足に行けなかったそうだ。前日に張り切りすぎて熱を出してしまうので。他にも修学旅行後は一週間寝込んだりもしたらしい。高校になってからはかなり体調に気をつけてはいるが、それでもたまに吐いたり熱を出したりしている。今日もまたマラソン中にぶっ倒れて熱が出た。全力疾走なんてするからだとは思うが、「やるからには全力で」がモットーなやつだ。多分、誰が何を言っても聞かないだろう。

 そう言うわけで、放課後、宮川翔吾は大きくため息をつきながら、保健室の前にいた。手には二つの鞄を持っている。一つは自分の。もう一つは早苗の。帰ろうとしたところ担任に持って行くようにと言われたからだ。ついでに「送ってやれ」という言葉も一緒に同封されていた。

 翔吾から見たらそこまで大事にする必要はあるのかと思う。いくら体が脆いとはいえ自業自得だ。そもそも熱が出た時の対処なんかは心得ているだろう。仮にも早苗自身の体だ。高校入学から関係がスタートした自分なんかより知っているものがあるだろう。

 だがまあ担任に言われたからには仕方がない。冷たいやつとクラスの人間全員から後ろ指を刺されるのも面倒だ。なので早苗に鞄を持って行って送ってやる必要がある。

 ガラリ、と保健室の扉を開けて「早苗」と声をかけた。保健室の先生は、どうやら席を外しているらしい。複数台並ぶベッドスペースに一つだけカーテンで仕切られているベッドがあったためカーテンを開いて中を見た。早苗が「やあやあやあ」とあまり元気ではなさそうな声で翔吾に返事をした。

「鞄を持ってきてくれたようだね。わざわざありがとう。それにしても困ったものだ。5キロメートルの残り2キロを全力疾走しようとしただけで息が上がって熱が出るとは。体力がないとしかいえないな。これから毎日少しずつ走るようにしたほうがいいかな」

 早苗はそう言って体を起こしてベッドから出ようとする。よくもまあ回る口だなと半分呆れた。と、同時に思っていたよりも蒼白な顔とぎこちない動きで嫌な気持ちになった。すでに何回か見ているはずなのに、弱っている早苗の姿は好きになれない。

「走るなら熱を治してからにしろ」

 翔吾はふい、と早苗から目を逸らしながら言った。ついでに鞄を放り投げてやる。担任がいうには中に制服が入っているらしい。早苗はマラソン中にぶっ倒れたので体操服のままだ。帰るためにはとりあえず制服に着替えてもらう必要がある。

「それもそうだな。ならさっさと治してしまおう。家に帰ったら薬でも飲むさ」

 早苗はベッドの上にボスンと音を立てて落ちてきた鞄を受け取りながらそういった。それを見て翔吾は踵を返して立ち去ろうとする。

 だが、早苗が「そういえば」と声をかけてきた。

「古典の授業はどうだったんだい? 先生が面白い話をしてやるとつい先日言っていたから気になっていたんだ」
「そうだな。梅を詠んだ和歌の話をいくつかしてたな。あんまり覚えてねえよ」
「そうか。梅を詠んだ歌か。惜しいことをしたな」
「仕方ねえだろ。熱出ちまったんだから」
「そう。そうだな。わかっているんだ。でも──」

 ただ走っただけで熱が出る体が、心底恨めしいよ。

 ぽつり、と言葉が溢れていた。多分、早苗にとっては無意識だろう。
 だがその声が存外細くなっていたのには驚いた。そして早苗も自分自身から出たものだと信じられないような、泣きそうな顔をした。

「いや、いや、忘れてくれ。僕がマラソン中に全力疾走をしなければ聞けた話なんだ。君が言っていたように仕方ない話だ。自業自得にも程がある。それに個人的に先生に聞けば良いんだ。だから、僕が恨めしいとか惜しいと言っていい道理は、どこにも……」

 早苗は泣きそうに笑いながら話をする。嫌だな。今日は心まで弱ってしまっている。やっぱり早く帰って寝たほうがいいな。そんなことを言いながら、弱音を言ってすまないと翔吾に時々謝り続けた。

 自分が言える立場じゃない。自業自得。ペース配分が悪い。体が弱い。そう言ってずっと熱が出たことを自分の非であるかのように責めながら。

 確かに、自業自得だと思う。体が弱いとわかっているのに、全力で何かするなんて、熱を出しに行きますと言っているようなものだ。

 でも、熱が出ることも、体が弱いことも、早苗は本当は望んでいない。そもそも、全力を出す前に熱が出てできなくなったり、志なかばで終わってしまうものが早苗には多いのだ。小学校の遠足は、きちんと眠っていたのに熱が出たと言っていた。修学旅行は気合いで乗り切っただけで、旅行中も体調は悪かった。高校の授業も、なんとか休まず受けているけれど、休憩時間は机に突っ伏して動けなくなっている時もある。普段明るく振る舞っているのは、おそらく、そうでもしないとやってられないからだ。熱が出てフラフラなのに早口でまくしたてる口調になるのも、ずっと笑っているのも、多分、心を折らないようにしているからだ。

 そのことに、翔吾は今、気がついた。気がついてしまった。
大きなため息が出た。

「職員室行くぞ」
「え」
「まさか、今から先生に授業のことを聞きに行こうっって魂胆じゃないだろうな。でもそういう優しさはよしてくれ。いや、優しくしないでくれ。これは俺の自業自得だ」
「そうだな。てめえの自業自得だ」
「だろう? だったら──」
「気が変わった」

 早苗の手を掴んで保健室から出た。早苗が大きな声で「ちょっとちょっとちょっと」と声を張り上げている。そんなこと知るか。

「てめえ退屈してんだろ。それに今俺は退屈してんだよ。なら付き合え。それでいいだろう」

 ストップをかける早苗をそう言って引きずった。多分、熱はまだ出ているのだろう。掴んだ手の温度からそれが伝わってくる。それでも、別に止まる気はない。

 全力でやりたいのなら、熱が出てもやればいい。

 中途半端になるから恨めしく思うのだ。誰かの力を借りてでも好きにすればいい。しかも、自分は周りからニコイチだとか保護者だとか言われているくらい、早苗の隣にいるのだ。早苗が自分に迷惑をかけても別に困らない。

 それに──

 しょげて強がるこいつより、全力で笑って全力で遊んでいるこいつの方がいいしな。

 そう思うと不思議と楽しくなってきた。先生の話を聞いて大興奮した早苗は、また熱を出すだろう。フラフラになりながら帰ることになるかもしれない。それを抱えて帰るなり支えて帰るなりして、こいつの家の布団に投げ捨ててしまおう。幸い早苗は、体調は悪くなることは多いが治りが早い。明日には酷い目にあったといつも通り大騒ぎする早苗の姿を見れるはずだ。

「だから、私に優しくしないでってば!」
「やだね」
「なら、せめて、手を、離してくれたまえ……!」

 放課後の職員室前の廊下には、早苗の声が大きく響きわたっていた。

5/2/2023, 12:16:38 PM