入野 燕

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怖がり

「私、怖いんだ」
彼女がそういったのは一体いつ頃のことだっただろうか。
なんてことのない日、いつもどおり僕の家でどうせ見やしないテレビをつけて、特に理由もなくソファに互いに身を寄せてスマホをいじっていたあの夜。
僕が「なにが?」とスマホから目を離さずに言った僕に、彼女はスマホに目を向けたまま静かにこういった。
「人って死んだらどこに行くんだろうね」
その時、僕は彼女のそんな言葉に少しどきりとした。
死、そんなものを考えたことをいちどでもあっただろうか。僕はまだ大学生だった。死なんて言葉に実感なんてものはなかったんだ。
自分の遠くにある、自らが手を伸ばすことがあっても到底届くようなものではないもの。そんな認識だった。実際、高校の頃に見た戦争の映画なんかや少し前にあった親戚の葬式なんかでも死を実感することなんてできやしなかったんだ。
だから僕は、
「さあね、地獄か…天国にでも行くんじゃない?」
なんて、適当なことを彼女に言った。
「ふふ、そうだね。私は天国に、いけるかなぁ」
彼女はスマホをいじる手を止めて天井へと目線を移した。
その時、彼女の声が少し震えていたことに気がつけば何かが変わったのだろうか。
「自分が天国に行けないようなことをしていると思ってるの?」
話の核が見えなくて、少し声に苛つきを持たせてしまった。
「ううん、ちっとも」
彼女はこの話を始めてから一度もこちらを向いてはいなかった。
「じゃあ、なんで?」
「これから、するかもしれないだろう? …私はずっと怖いんだ、死ぬのが。ここのところ良く考えるんだ。ずっと、ずっと、ずっと考えている」
その時の彼女の声は、到底死を怖がってるような声には聞こえなかった。何かを、何か重要なことを抱えて覚悟を決めた人間の声だった。
僕は、愚かにもそんな彼女の異変に気がつくことができなかったんだ。
「そんなもの考えるだけ無駄だ」
だから僕は彼女にこんな言葉を吐いてしまったんだ。
「君は、そのままでいいよ。そのままでいてね」
彼女はこの言葉を最後に、もうなにも言わなかった。

その次の日から彼女のいない生活が始まった。


彼女に会えたのは半年後のことだった。
「なあ、どうしてだ? どうして僕に何も言わなかった? それに何なんだの手紙。他に好きな人ができたから別れようって、何を考えているんだ?」
彼女の居場所をようやくのことで突き止めた。そこに入ってすぐ、出てきたのは久々の再開を確認する言葉でも、愛の言葉でもなかった。
彼女はある病院の一室にいた。あの時よりも遥かに痩せ細り、弱々しくなった彼女がそこにいた。
呼吸器をつけている彼女は儚くて、息も絶え絶えで、今まで僕の頭になかったものが一気に頭を駆け巡った。
「ああ…来て、しまった、か」
弱々しく、生気のない声で彼女は言った。
僕は彼女に一目散に駆け寄った。
「なあ、どうしてそんな姿なんだ? それにこの手紙、何なんだ? なあ、死ぬのか? まさか死ぬなんて、言わない…よな?」
久々に見た彼女の姿と、いままで言いたかったことがグチャグチャになって口から出ていった。
「ははは。君の…そこまで焦っている、姿を見るのは初めて、だな」
彼女はこんな状況でものんきにそんなことをいった。まるでいつもどおりの日常の会話のように。
爆破無意識に自分の頭をガシガシとかく。
「そんなことどうでもいいだろ。なあ、質問に答えてくれよ。なんでそんな姿なんだ?」
「ははは…。その癖もあい、変わらず…だな。…そうだな、まず、手紙のことだが…。君に別れを告げよう、と思ったんだが、君は、強情だからな…簡単には、別れられないと思って、手紙を、書いたんだ」
「それで僕を納得させるためのいい訳が他に好きな男ができた、か。なあ、本当にこんなもので僕が納得できると思ってたのか?」
僕がそう言うと彼女はくぼんだ目を細めて笑いながら、でも少し泣きそうな顔をしながら
「君なら、そういうと、思ったよ。だから、夜逃げを、したんだ。…問い詰め、られたら、ボロが出てしまう気がしてね…」
「なんでだ…、本当のことを言えばよかったじゃないか。なんでわざわざこんなことを…」
「君に、死に目を見せたくなかったんだ」
彼女の僕を見る目が変わった。何かを慈しむような優しい目。
「君には…死を、感じてほしくなかった。未来…と、いう名を…持つ、君には、ね…。死という概念を…感じさせない、そんな君を変えたくは…なかったんだ」
「なんだよ、それ…。じゃあお前は僕に、愛している人の死に目を見せないつもりだったていうのか!?…そんなのあんまりだ」
彼女のくぼんだその目が、少しだけ見開いた。
「愛…している、か。死ぬ前に…君から…そんな言葉が、聞けるとは、ね」
「死ぬ前って、そんな事言うなよ…。せっかく、たどり着けたのに」
僕のその言葉を聞いた瞬間彼女の、肉のない、骨と皮だけの腕が少しだけ動いた。
「ああ…もう、君の頭を、撫でることも…できないのか」
僕は反射的に彼女の手を握った。手はほんのりと暖かくて、でも、普通に生きている人間の体温ではなくて、彼女の死が刻々と近づいているのがわかってしまった。
目に水がたまる。
「ああ、泣かないで…くれ。…本当は、言うつもりは、なかった、んだけど、ね。……こわ、かったんだ。死ぬ、のが。君、と離れるの、が」
『怖い』という言葉を彼女がこぼしたのはたったの二回目だ。
「君が、死ぬ、直前まで、いると、生きたい、と思ってしまうんだ。でも、そんな、思いを持ち、ながら死ぬのは、いやでね。君が、いない場で静かに死ぬ方が…マシだと思ったんだ。
君が、最後まで…私のそばで悲しんで、るところを想像すると…どうしても耐えられなくて」
僕は彼女の吐く初めての弱音に何も言うことができなかった。彼女はもっと強い人だと思ってた。死なんてものは彼女の前ではなんてことのないもので、彼女に関連のないものだと、思っていたんだ。
「以外だ、と思っている…の、かな? はは、は…どうやら、私の猫かぶり、は最後まで…成功していたよう、だな…」
「猫かぶりってなんの…」
「私は、ね…君が思って、いる…何十倍も…怖がりな、弱い…人間なんだ、よ。だから…死、なんてものは特に…怖かったんだ…。悪かった、ね…君のことを、今まで騙して、いて…。
君は…私の芯のある、ところが…好きだったの、だろう?」
こんな時なのにも関わらず、彼女は僕心配をしていた。
「そんなこと、どうだっていい …。どうだっていいから…!」
だから…と、僕が続けようとしたところで、彼女は言葉を紡いだ。
「なあ…君、は…私、が怖が、りでも…愛して…くれた、か?」
そんなの…そんなこと、
「当たり前だろ…!そんなこと、だって、だって僕は…」
「そうか、なら…いい、さ」
ピッ………ピッ………ピッ…………
僕が来た時から、いや来る前からずっと規則的になり続けている心電図の音がやけに頭に響いた。嫌な予感が、頭をよぎった。
「ああ、もう…そろそろ、だめかも、ね。…君の、家に…唯一、置いて、いった…物があるんだ。探して、みて…くれ」
彼女はそれだけいうと一度だけ、少しの間だけ目を閉じると
「…最後に、顔を見せておくれ」
彼女は優しく柔和な笑みを浮かべた。僕は何も言わずに顔を彼女に近づけた。僕はもう、何も言わなかった。何も言えなかった。
ただただ、何も言えない口に変わって涙がこぼれ落ちた。
涙は彼女の人工呼吸器と、顔をつたる。
「ああ…、死に、たくない、なぁ…。君が、来る前…は覚悟が、できていた…はず、なの、に。ああ、死にたくない。死に、たくないよ。まだ、君といたかった。君と、君と…。
なあ、未来…君を、君を、私は…本当に…_____」
ピーピーピーピーッ
彼女が、死んだ。
無機質なその音が彼女の死を告げていた。僕は彼女の顔を見ることができなかった。
シーツに滲みている涙が、彼女のものか、僕のものなのか、それは誰にもわからなかった。


チリン…チリン…
鈴が僕の歩くテンポに合わせて鳴る。
彼女の残したものとは鈴だった。小さな小さな、それでもどこか存在感を放つ、したたかな鈴だった。『必ず、いつでも持ち歩くものにつけるように!』という彼女の残し手紙の言う通り、
スマホにつけて持ち歩いている。そのせいで、どこに行こうともこの鈴はチリン…チリン…と規則的なリズムを刻んで僕についてくる。
彼女は本当に怖がりだった。怖がりな人間だった。僕は、それに最後まで気が付かなかった。いや、気がつくことをしようとしなかった。きっと僕も怖がりだった。死ということを僕は僕の奥底できっと恐怖していた。
だから、僕は彼女を忘れない。僕に死を教えた彼女を、最後にこんなものを残していく怖がりな彼女を僕は忘れない。忘れることはできないだろう。
死を教わった僕もまた、怖がりになってしまったのだから。



3/16/2023, 3:43:49 PM