〈君に会いたくて〉
結婚して初めての冬を、俺は遠い街のビジネスホテルで迎えている。
長期出張。カレンダーを見るたび、妻の里枝と過ごしていない日付に線が引かれていくみたいで、胸の奥が少しずつ冷えていく。
夜、部屋の明かりを落としかけたころ、スマートフォンが震えた。表示された名前に、ほっと息をつく。
「もしもし」
『……起きてた?』
彼女の声は小さくて、少しだけ間がある。いつもの話し方だ。
つけていたテレビの音を絞る。
「うん。今ちょうど横になったところ」
『そっか』
それきり、少し沈黙が落ちる。何か言いたそうで、でも言葉を探しているときの癖。
『ね、聞いて。実家、三日で帰ってきちゃった』
「やっぱりか」
『だってさ、パパが「本当に仕事なのか」とか、「若い男は外で羽伸ばすんだ」とか。
ずっとそんなこと言うんだよ。……疲れた』
語尾が少しだけ尖る。でもすぐに力が抜ける。
『あなたが気を遣ってくれたのは分かってる』
「ごめんな。かえって寂しい思いさせた」
『……ううん』
その「ううん」のあと、また短い沈黙。受話口の向こうで、彼女がソファに丸くなっているのが目に浮かぶ。
「今日は何してたの?」
『仕事終わってからカフェで本読んでた。
帰りにスーパーの半額弁当買って、ドラマ見て』
「一人で半額弁当狙いに行ったの?」
『うん。意外と楽しいよ、あれ。おばちゃんたちとの戦い』
俺は笑った。彼女も笑った。そんな他愛のない会話を続けた。今日見たドラマのこと、近所のコンビニの店員が変わったこと、街角の地域猫のこと。
そしてまた、ところどころ黙り込む。
「……それで?」と促すと、「うん、そうそう」と慌てて話を続ける里枝。その繰り返しだった。
『ねえ、友貴』
「ん?」
『早く会いたいな』
胸が締め付けられた。
『独りでいると、部屋が広すぎて寂しい。
二人でいる時は狭いって言ってるのにね。変なの』
寂しがりやの彼女からあふれてくる言葉が、胸に刺さる。
『早く会いたいな』
吐息が混じる。あの、くっついてくるくせに、触れようとすると逃げる、猫みたいな妻の声。
「俺もだよ」
本当はもっと言いたい。でも、うまく言葉が出てこない。
『……そっち、寒い?』
「寒い」
『じゃあ、ちゃんと暖房つけて』
まるで自分のそばにいないのが分かっているみたいに。
そのうち彼女からの返事が遅くなっていく。呼吸音が一定になり、小さな息づかいになる。
「里枝?」
『……ん』
眠りかけの声。
「もう寝ろ」
返事はない。耳を澄ますと、規則正しい寝息が聞こえてきた。電話を握ったまま、眠ってしまったらしい。
俺はしばらくそのまま聞いていた。彼女の吐息。いつも隣で聞いているはずの音。
こんなに愛おしく感じたのは初めてかもしれない。
「おやすみ」
小さく呟いて、電話を切った。
明かりを落とし、ベッドに横になる。天井を見つめながら、さっきの声を反芻する。「早く会いたいな」って。
会いたい気持ちは、俺も一緒だ。今すぐ、帰りたいくらいだ。
目を閉じる。せめて夢の中で会えたら。そう願いながら、俺も眠りにつく。
傍らに眠る、彼女の柔らかい温かさを思い出しながら。
─────
「会いたい」ではなく「会いたくて」、その後の行動や感情を含める表現が切なさを増幅させますね。
今回の脳内BGMはスターダストレビュー「夜更けのリフ」です。古い古い。
今回のお話は「寂しくて」の新婚夫婦のお話です。猫みたいな彼女。
今日はあまりにも寒くて、ぬくぬくしたいよね……
1/20/2026, 6:23:08 AM