ひと

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やわらかな光



麗らかな春の日。少しだけ開けた窓から入り込む風は、まだ少しだけ冷たい。けれど、この午後一番の授業を眠らずに過ごす為には、ちょうど良い刺激となっていた。

(あー…早く終わんないかな…)
英語は苦手だ。何を言っているかさっぱりだ。
高3にもなってbe動詞で躓いてるのは、きっと私だけだ。
「ーーーはい、じゃあこの問題は…青井!分かるか?」
さっぱり分からない英語だが、何故か先生からは好かれていた。
「え"」
「えってなんだ〜?分からんのか〜?去年も教えたところだぞ?」
全く、嫌な大人だ。
「そうでしたっけ?えー…確かwas!」
「全然違う。青井だけ一年やり直しだな。はい次、増田!」
…別に英語が出来なくても生きていけるし。英語と物理以外は点数良いし。
そんな屁理屈を心の中でぶつけながら、視線をノートに戻した。
「青井さん、やっぱり当てられたな。去年も毎回だったもんな。」
話しかけてきたのは、隣の席の野球部エース芦田君だった。
「…どうにかしてほしい…」
「それは多分青井さんの上下左右の人たちが思ってる事だと思う…」
「え、どうして?」
「青井さん当たると、必ず青井さん起点に当てられるから。」
「……」
…私だって別に当てられたくて当たってるわけじゃない。黙ってぶすくれる私を見て、芦田君は軽く笑った。
「ふ、怒んないでよ。ごめんて。」
柔らかく笑う芦田君に心臓が鼓動を速めた。

芦田君とは高2から同じクラスになった。初めは別に何とも思っていなかったが、授業中、柔らかな光に包まれて窓際の席で堂々と居眠りをする姿が、何故か輝いて見えて釘付けになった。
それからというもの、私は芦田君をずっと好きでいる。
しかし彼は野球部のエース。顔も整っており、性格も良しときた。そんな人が人気にならないはずがない。
いくら同じクラスで出席番号が近いからと言っても、所詮はそれだけの繋がりなのだ。教室を一歩出れば見えなくなってしまうような、儚いものなのだ。
近くで想っていても、届きはしない。彼女だなんて夢のまた夢だ。芦田君の彼女になるような子は、きっと可愛くて、野球にも詳しくて、周りにも気が利いて、英語もできる、そんな子に違いない。

ーーーだから、いちいちドキドキするな。
勘違いしそうになる心をぐっと抑えようと、唇を強く噛んだ。
「え、な、泣く!?」
それを見ていたのか、自分が揶揄った所為だと思ったらしい芦田君が、慌て始めた。
「へ?あ、違う違う!大丈夫!そんなんじゃないから!」
説明は出来ないが、とりあえず否定はしておいた。
「ほ、本当に?…よかった…俺青井さんの事泣かせたんかと……」
「本当にそんなんじゃないから大丈夫だよ!」
「何が大丈夫なんだ?」
ぬっと現れた教師に軽く息が詰まる。いつの間にか大きくなっていた声は、先生のみならずクラスメイトの視線まで集めていた。
「青井、お前は全然大丈夫じゃない。私語している場合か?芦田も、青井の事を思うなら、単語の一つでも教えてやれ。」
「はい…」
「すいませんした!」
やらかした…芦田君を巻き添えにしてしまった。

その日の英語の授業は全く頭に入らずで(いつも)終業のチャイムが鳴ると、私はそのまま机に突っ伏した。
きっと芦田君呆れてる…。
そう思うと本当に涙が溢れ出しそうになった。泣くなと言い聞かせていると、机の角をコツコツと叩く音がした。
「?」
顔を上げると、芦田君が自分の英語ノートを差し出してきた。
「その文章訳して」
私に英語を教えようとしてくれている?
先生に言われた事をすぐに実践するなんて、なんて真面目な人なんだ!…て芦田君はそんなに真面目な人だったか?
だいぶ失礼な事を思い浮かべながらノートを見ると、真っ白なページに一文だけデカデカと書かれていた。

『I want you to come and watch the game on Saturday.』

「えーっと…アプリ使って良い?」
「ダメ。」
意外と優しくない。
私は頑張って訳す事を試みた。
「んーと、…ほしい…comeは来い?…見る…ゲーム、土曜日……」
知っている単語の意味を並べていく。
何故だか、息苦しいほど心臓が音を立て始めた。
いや、待て。これは都合のいいように私が解釈してるだけでは…?
落ち着けと言い聞かせて、芦田君に視線をやると、芦田君もじっとこちらを見つめていた為、バッチリと目が合った。
「意味、分かった?」
期待してはダメだ。期待するから、そうじゃなかった時落ち込むんだ。勘違い、するな。
「あ…、え…と、」
芦田君が目を逸らさない。
「ゲーム、土曜日にゲームをするよって」
「違うよ」
食い気味に否定された。しかしこれ以上核心に迫るのが怖かった私は、分かりませんと白旗をあげた。
「青井さんは本当に英語が苦手なんだね。」
未だ鳴り止まぬ鼓動がうるさい。

「"土曜日の試合を見に来てほしい"」

教室のざわめきが嘘のように聞こえなくなった。私の耳は、心は、全身は、紡がれ続ける彼の音だけを拾っていた。

「土曜日の試合、俺が先発なんだよ。…だから青井さんに見に来てほしい。青井さんが来てくれたら、俺すげぇ頑張れる気がする。」

少し頬を赤らめた彼がぼそりと呟いた。

「来て、くれる?」

届かないと思っていた。想うだけ無駄だと諦めていた。
なのに…

「わ、私で、いいのっ?」
「青井さんがいいんだよ。」

君が手を伸ばしてくれるなら、心を向けてくれるなら、喜んでその手を取ろう。

「いっ行きます!!!」

こんなに嬉しい事はきっとない。

「声でかww」

麗らかな春の日、やわらかな光が私たちを包んだ。それはほんのり暖かく、何かが芽吹くには丁度良い心地だった。


きっとこの先、大輪の花を咲かせる2人の未来は、やっと膨らみ始めた蕾のようで、まだ少し淡かった。

10/16/2024, 7:12:47 PM