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奇跡をもう一度


 生クリームが足りなくなった。
 その日、その時間に、それから買い足すことはできなかった。

 もう三十年以上昔の話である。
 父の誕生日に一番近い週末だった。
 私の家にはプレゼントを贈り合う習慣がなく、「とりあえず最寄りの週末にケーキを焼いて、みんなで食べる」のがならわしだった。
 (贈り物をしないのは、家族全員が「本当にほしいもの以外はいらない」という性格だったためである)
 小学生二人に手伝い(という名の楽しい遊び)をさせて、母がショートケーキを作ってくれる。「モントン」のスポンジケーキミックスはふんわりしていて、バニラエッセンス(ビーンズは当時、近所では手に入らなかった)がたっぷり入っていた。
 私たちきょうだいは、最後の飾りつけにクリームを絞るのが大好きだった。口金のついたビニール袋をそっと絞って、不恰好な渦巻きを作る。何度やっても、いつも作っている訳ではないはずの母よりもはるかにヘタクソで、でも時折りちょっとうまくいくとひどく嬉しかった。

 母はハンドミキサーを出して、私たちに幾つかの指示と注意をした。
 ・スイッチを入れて、そっと、ゆっくり泡立てる。
 ・ボウルの内側にぶつけないよう注意。
 ・重いので、交代しながらやること。

 この文章を読んでしまった方にはもうお分かりだと思うが、母は一つだけミスをした。
「いつやめるか」を言い忘れたのである。
 彼女がてきぱきとスポンジを焼いたり苺を切ったりしている間に、子どもたちはせっせとクリームを泡立てていた。
「何か変じゃない?」「うん、何か変だね」
 などと言いながら混ぜ続けた結果、生クリームはボソボソを通り越した「ボロボロ」になっていた。
 どうやら、何かやらかしたらしい。

 母は、ひどく困った顔をした。
 でも大声も出さず、私たちを一言も責めなかった。ただ「あらぁ…」とか何とか言っていたように思う。
 ・その頃、泡立てた「ホイップクリーム」はそこらへんに売っていなかった
 ・新たな生クリームのパックは、何らかの理由(買える店が遠い、まもなく閉店等)で買えなかった
 という訳で、彼女はそのボロボロになったモノに何かを加えてのばし始めた。

 今、インターネットの力を借りてみると、液体の生クリーム、牛乳、粉糖…混ぜるべき様々なものが挙げられている。きっと母も、知識と勘を頼りにいろいろ混ぜてみたのだろう。
 私が覚えているのは、何か製菓用のお酒(おそらくホワイトキュラソー)を足していたことだけである。

 普段はお店のケーキに倣って、滑らかにクリームを塗っていた。だがこの時だけはナイフの跡も荒々しく(ボソついたクリームを側面に無理矢理くっつけている)、何とかスポンジケーキを覆う! という気概溢れる仕上がりになった。ココアパウダーだか削ったチョコだか、何だかをかけていたように思う。無論、クリームを口金で絞るなど論外である。敢えていつもよりラフに苺が飾りつけられ、とりあえずケーキが完成した。
(ちなみに主役であるはずの父は、子どもたちが手伝ったケーキの出来栄えにケチをつけるような小さい男ではなかった、ということは付言しておきたい)

 そのケーキは、何故か本当に美味しかった。私は今に至るまで、あれより美味しいケーキを食べたことがない。何というか、奇跡的な味だった。
 だが残念ながら、何とかでっち上げた母ですらレシピがまったく思い出せないので、再現しようがない。
 もしもう一度だけ奇跡が起きるなら、どうかあのケーキを食べさせてほしい。

10/3/2024, 10:58:12 PM