すゞめ

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『星空の下で』

 彼女はしっかりしているが、意外と忘れ物が多かった。
 結婚して以降は、特に多くなった気がする。

 彼女の勤め先の最寄駅。
 チームメイトと別れる彼女を見つけて、俺はすかさず駆け寄った。

「お疲れさまです」
「あれっ、れーじくん? こんなところでどうしたの?」

 備えつけシャワーで軽く汗を流してきたのたろう。
 蒸気する彼女の頬にチークは乗っていなかった。
 僅かに着崩されたスポーツウェア、いつもより強く香る制汗剤、そのどれもが湿り気を残しており、彼女の雰囲気は色めいている。

 その中で、リップだけは引いたのか、薄い桜色の唇が艶を帯びてキラキラと夜の光に照らされていた。
 人目もはばからずに大きな瑠璃色の瞳いっぱいに俺を映したいという衝動に駆られる。
 すんでのところでとどまれたのは、彼女にとっては突然目の前に現れた俺に対して、あまりにも無垢で無警戒に見上げているからだ。

 かわいいな? おい。
 こんなのナンパしかされないだろう。

 迎えにきて正解だったと、心の底から安堵する。

「忘れ物を届けにきました」
「え、忘れ物なんてしてないし、……それに、もう仕事は終わったよ?」

 意味なくない?

 不思議そうに首を傾げる彼女だが、仕事が終わったからこそ届けに来たのだ。

 俺を。
 セルフで。

 日が長くなってきたとはいえ、19時も回れば気温は下がり、辺りはすっかり暗くなる。
 まばゆい月明かりとポツポツと星が散らばっていた。

「今朝、帰宅が遅くなるってこと、俺に伝え忘れたでしょう」
「……あれ? そうだっけ?」
「スケジュールアプリを共有して正解でしたね」

 しっかりしているようで意外と抜けている彼女は、スケジュール管理が苦手で忘れ物も多い。
 会社の機密に触れない程度に、彼女は俺とスケジュールを共有していた。
 それもこれも、今日みたいな事態を防ぐためである。

「こんな暗がりのなか、あなたを歩かせるわけにはいきませんから」

 暗がりが苦手な彼女は夜道を嫌う。
 素直にタクシーを拾ってくれるのは幸いだ。
 それでも、明かりの弱い密室ともいえる空間でひとりきりというのは心許なく感じるのだろう。
 帰宅直後の強張った彼女が肩を撫でおろす瞬間は、見ている俺のほうが胸が苦しくなった。

 誰かと会話することで少しでも気がまぎれるなら、その話し相手は俺であるべきだろう。
 こうして俺は俺自身を届けに来たのだ。

「帰宅ルートくらいはひとりでがんばれるもん」
「がんばる時点でダメなんです。なんのために俺がいるんですか」
「れーじくんをそんな都合のいいパトロンにした覚えはないね」
「俺はしてほしいくらいなのに」
「変に私を甘やかすのはやめて」
「あなたの頼みとはいえ、あなたを甘やかすことで俺の幸福度が爆上がりするのでそれは聞けませんが、そもそもこんなのは甘やかしのうちに入りません」

 食事の介助、身支度のフォロー、歯磨きの仕上げ、会社までの送迎、月経周期の把握、寝かしつけなどなど。
 具体的に挙げたしたらキリがないが、彼女の生活記録に関わることを甘やかしの枠内にはめ込むなど、あり得なかった。

「甘やかすっていうのはギュッてしてチュッてして、あなたの心をパラダイスにすることをいうんですよ?」
「そんなの知らないし、その頭の悪い表現はだいぶ気持ちが悪いからやめてくれる?」
「……ふむ」

 彼女からの「気持ち悪い」はさすがに傷つくため、俺は言い方を変える。

「蕩けるようなキスをして、胸が苦しくなるまできつく抱きしめあって、俺以外のことをなにも考えられなくなるまでグズグズに抱き潰すことを甘やかしと定義します」
「言い方の問題じゃないし、脳内がおかしいことには変わりないし、どさくさで甘やかしの範囲をえっちな方面に絞り込むな!!」

 星空の下、彼女の怒号が響き渡ったところで俺は話を逸らした。

「あ、そういえば、会社で貯めてしまったボールペン、ちゃんと持ち帰ってきましたか?」
「…………忘れた……」
「えぇー」

 気まずそうに視線を泳がす彼女に、俺は無遠慮にむくれた。

 貰えるの、楽しみにしてたのに。

 先日、年度末にデスクの整理をしていた際に、大量に荷物を持ち帰ってきたときだ。
 彼女から、出先で携帯し忘れては購入していたボールペンが大量に出てきたとしょんもりしながら懺悔される。
 日持ちするものとはいえ、ざっと30本はあるそうで、大量発生しすぎて処理に困っていた様子だった。

 自分で量産したクセに。

 なんて、思わなくはなかったが、俺は彼女に要らないならくれと申し出たのだ。
 きちんと使い捨てることを条件に譲り受けることになったのだが、それを忘れたらしい。
 大変遺憾である。

「明日は会社まで行きますね」
「やめて。たかだかボールペンのために時間割いてないで仕事しろよ」
「失礼な。してますよ」
「真面目に!」
「俺、勤務態度はいいほうです」

 それに、彼女は明日も帰宅が遅くなるはずだ。
 俺の態度が頑ななせいか、彼女は渋い顔をしながらグッと唇を噛みしめる。

「……明日はちゃんと持って帰ってくるから、会社に凸するのはやめて、お願い」

 わざとらしくため息をついたかと思えば、意を決したようにきゅるきゅると俺を見上げて、声をワントーン上げてきやがった。

 クッッソッッッ!!
 かっわいいなっ!!

 ワザとだとわかっていても、彼女にこういう言い方されると断れない。
 年々、俺をコントロールするためなら見境がなくなってきているのはズルすぎる。

 もっとください!

 とはいえ、あざとさのアクセルを全開にしてまで断るのは解せない。

「なんでそんなにイヤがるんです?」
「イヤっていうか、だって。今日もそうだけど、こっちに来るときいつもちゃんと身なり整えていいスーツ着てくるじゃん」
「それはそうでしょう」

 彼女の夫として、彼女の勤め先の近くまで来るのだ。
 分不相応なりに見栄くらい張らせてくれ。

「……えっちだからダメ」

 んんんっ!?

 彼女がベタなシチュエーションに弱いことは知っているが、俺に対してそういう概念持っていたのか。

「俺が目移りするとでも?」
「れーじくん自身の問題じゃないっ! こんなえっちだとれーじくんのおしりが掘られちゃう!」
「はあああ!? どういう方面の心配してるんですか!?」

 今度は俺が星空の下で大声を出すハメになった。

 誰のなんの影響だ!?
 今までそういう趣味、なかったはずだよなっ!?
 帰ったら徹底的に詰めてやるからなっ!?

 そう心に決めた俺は、彼女の手を引いて駅の改札口に入るのだった。

4/6/2026, 7:00:52 AM