【今を生きる】
放課後の教室に残っているのは、陽菜と尚人だけだった。
窓の外には、夏の終わりを告げるような赤い夕焼け。照り返しが、教室の床に長い影をつくっていた。
陽菜は静かに、黒板に向かってチョークで「ありがとう」と書いた。
「卒業でもないのに、それ書く?」
尚人が笑って言う。笑っているのに、その目はどこか寂しげだった。
「うん。伝えておきたかったから」
陽菜は黒板に背を向け、尚人の方を見つめた。
彼と過ごすのは、あとほんの少ししかない。
「転校、本当にするんだな」
尚人の声が、少し震えていた。
陽菜はうなずいた。「父の仕事の都合で、もうどうしようもないの」
「そっか……」
尚人は、机の縁に腰かけて、手にしていたシャーペンを何度もカチカチと鳴らした。
いつもなら先生に怒られる癖。でも今日は、誰もいない。
「尚人、ありがとうね。私、最後の一年、すごく楽しかった」
「やめろよ、そういうの……ずるいよ」
尚人が顔を伏せた。声が、夕焼けに溶けていった。
陽菜は少し黙って、意を決したように言った。
「ねえ、最後に一つだけお願いしてもいい?」
「……なに?」
「今日、この時間だけは、何も考えないで。未来のことも、離れることも。悲しいのも、寂しいのも。今だけは……“今を生きる”って決めたら、少しは楽になる気がするの」
尚人は目を見開いて、それから小さく笑った。
「……わかった。今だけは、全部忘れて、笑うよ」
陽菜も笑った。泣きそうな顔のままで。
ふたりは、誰もいない教室で、ささやかに笑い合った。
それが最後だった。
けれど、その「今」は、時間のなかで一番まぶしくて、きっと永遠に胸の奥で光るだろう。
7/21/2025, 1:30:14 AM