ミミッキュ

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"逆さま"

 今日の昼過ぎ、宝条永夢が俺の署名が必要だという書類を持って医院の診察室に来た。
「ごめんなさい。お忙しいのに……」
 永夢から書類が入った茶封筒を手渡す。封を開け、書類を取り出して一通り目を通しながら答える。
「んや、構わねぇよ。そっちの方がもっと忙しいだろ。申し訳なく思うのはこっちの方だ。……ただ」
「『ただ』?」
 書類から一瞬目を離して、永夢に目を向ける。
「いくら忙しいからって、『書類』の『書』を『所』に誤字したまんま送ってくんな」
 昨夜、永夢から送られてきたメッセージを思い出す。
 日記を書き終えた後、今日の昼過ぎに来るというメッセージが来たのだが、そのメッセージが『書類』の『書』という字がどういう事か『所』と書かれており、『所類』という見た事のない単語を織り交ぜて送ってきた。
 そんな誤字をした本人は俺の言葉に「え?」という声を発する。
 呆れた声で手に取ったボールペンの先を差しながら「昨日俺に送ったメッセを見ろ」と確認するよう促す。それに反応して「は、はい……」とポケットからスマホを取り出す。
──この感じ、気付いてねぇな……。
 スマホを操作して数秒後、「あぁーっ!」と大きな声が室内に響いた。あまりの大きさに思わず耳を塞ぐ。
「す、すみません!気付いてませんでした……!本当に、すみません……!」
「やっぱり……」
──こいつのおっちょこちょいなとこ、ホント変わんねぇ……。いい加減ちょっとは《落ち着き》ってもんを身に付けてほしい……。
 いまだに転んだり、とちったりする元研修医──現在は小児科医──に呆れを込めてノック音を鳴らし、ボールペンの先を出す。
「俺だから良かったけどよ……、今度やったら覚えとけよ」
 少々、厳しめの言葉を放つ。「はい……」と弱々しい返事を聞いて、「分かればいい」とデスクに向かって書類の署名欄にボールペンの先を滑らせ、自身のフルネームを書く。
 すると横から「ん?」と小さな声が聞こえたかと思った瞬間、声をかけられた。
「あのぉ、大我さん。その書類……」
「なんだ?」
 首を動かし、永夢に向ける。署名を書き終えた後、一体どうしたのかとボールペンを書類の横に置いて次の言葉を待つ。
「上下、逆さまじゃ……」
 言葉の意味が分からず、反射で「は?」と返すがすぐに視線を書類に向ける。
「うあぁっ!?」
 先程自分が書いた名前と、その周辺の書類の文字を見る。
 自分の名前と、書類全体の文字と書いた名前の隣の『署名』という文字の向きが。
 一八〇度違っていた。
 書類の向きをちゃんと確認せずに署名してしまったのだ。
 驚きの声を出すと、そのまま口をあんぐりと開けたまま、思わず無言で首を動かし、永夢の顔を見る。
「だ、大丈夫ですっ。横に印鑑を押す欄があります。印鑑を正しい向きで押せば……。とりあえず、二重線引いて訂正印押して、その上に正しい向きの名前を書けば大丈夫かと……っ」
 あわあわと慌てふためきながら、焦る俺を落ち着かせようと言葉を紡いでいく。
──……自分以上の反応をする奴を見ると、一気に冷静になるの法則。
 俺以上に慌てふためく永夢を見て冷静になっていく。
「とりあえず、線で消して訂正印押して、その上に署名書くわ」
 そういうとまたデスクに向き、今度は書類の向きを確認して二重線を引いて、デスクの上の小さな箱の中から黒の朱肉と訂正印を取り出し、上から被せるように印を押す。
 元の箱の中に仕舞うと、一度置いたボールペンを手に取り、再びペン先を滑らせて自分のフルネームを書き記す。
 向きが合っている事を確認して、茶封筒の中に入れ封をする。
「ほれ」
「ありがとうございます!」
 そう答えて差し出した茶封筒を受け取ると、意味ありげな視線を送ってくる。
「……なんだよ」
「あ、いえ……。大我さんでも、とちる事があるんだなぁ、って」
 聞き返そうとすると「あ!そ、それだけです、すみませんっ」と腰を曲げて謝罪する。
──いや、俺何も言ってねぇ……。それじゃ、俺がパワハラ上司みてぇじゃねぇか……。
 「それでは」と背を向けて部屋を出ようとするが、その背中に「待て」と声をかける。俺に「何ですか?」と疑問を投げかけながら振り向くと、引き出しから出した、ラッピングされたクッキーを投げて渡す。慌てて両手でキャッチすると、小さく「ナイスキャッチ」と賞賛する。
「休憩時間に食え」
「は、はいっ、ありがとうございます!」
 「美味しそう……」と声を漏らしながら身を翻し、扉を開いて廊下に出る。
「ではっ」
「おう」
 短く返信をすると、扉がゆっくり閉まっていく。完全に閉まるのを見届ける。
「……」
──俺、疲れてるんかな……?今夜はちゃんと寝よ……。

12/6/2023, 3:48:19 PM