よらもあ

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黄道十二宮のうち9番目、人馬宮の主人はある程度のことはそつなくこなすことができた。
それはおそらく、半人半馬のいて座にあてがわれたあらゆる逸話のなせることであり、そして何より彼自身の能力がそれを可能にしていたのだろう。

射手、または狩人としての能力はもちろんのこと、医学に長け音楽や哲学、はては農耕や法にも精通している。そしてそれらをひけらかすことなく、教えを乞う者には平等にその機会を与えてやる人徳者でもある。
その機会を与えられた一人として、蛇遣いは敬意を表して半人半馬の男を「師匠」と呼んでいた。
どんな小さな声で、囁くように呼んだとしても必ず気が付いて視線を向けてくれる姿を見るたびに蛇遣いの心は弾んだ。
向けられる視線の動き、それに合わせて緩められる口元。捻る首の動きや身体の向きを変える動き、迎え入れてくれるように動く腕の動かし方や四足の運び方、果ては応えるために出される声色の高さや喉の動きのその全てが蛇遣いが幼い頃より仰ぎ見て来た師の姿そのものだった。

粗暴なケンタウロスではなく、賢く弓引くケイローン。

ただ星空に浮かんだためなのか、よく見た師の姿のはずなのに違うものもあった。
弓引く姿はよく見た気がするが、実際にそれで狩りをしていただろうか?
物事をしっかり捉えておられたのに、衝動的に行動する方だっただろうか?
確かに師と過ごした記憶を有しているのに、些細な違いがあるのは気のせいだろうか?
奥方の姿形も知っているニュンペーのそれとは違う気がする。
時折、懐かしむように呼ばれるお子様の名前も違う気がする。
しかしそんなことはどうでも良いと思えるほどに、星空での再会を喜んだのは自分だけではないはずだ。

それなのに何故だろう「それは本当に蛇なのか?」と師に問われた瞬間、いつも側にいる蛇が竜に見えたような気がするのだ。
星空に浮かぶケンタウロス座を指し示され「君は誰を見ているのだ?」と師に問われればひどく不安な気持ちになるのだ。
蛇はいつも側にいるのに「そんなところに蛇がいるな」と師に言われると、全く見知らぬ蛇に思えて殺さねばならないかと惑うのだ。その惑いが恐ろしく、直ぐに蛇を守ってやらねばならないと罪悪感にかられるのだ。

そうして、師にとって自分がどれだけ未熟なままなのかをいつも蛇遣いは思い知らされる。
自分は立派になったのだと認めてほしい気持ちはあるが、おそらく師には届かぬ想いだろう。しかし同時に、蛇遣いはまだまだ教えを乞えることが嬉しくもあるのだ。


「……君は確かに、死を覆すほどに純粋すぎたのだな」
半人半馬の男はいつものように、少し困ったように眉を寄せて、けれどひどく優しい声色で蛇遣いへ届かぬ想いを口にした。





“届かぬ想い”

4/15/2024, 4:29:39 PM