「優しくしないで」/小説
いつも僕をいじめるやつがいた。同じクラスの高橋というやつだ。高橋のいじめにはいつも苦しめられていた。自殺をも考える日が続いた。
しかし、ある日をさかいに高橋は僕をいじめなくなった。それどころか、僕に優しさすら見せるようになった。高橋の変貌は、最初なにかの罠ではないかと思われたが、次第に疑いは晴れていった。高橋の優しさは徹底していたし、罠をかけるにしてはあまりにも長い月日が罠なしで経過していたからだ。
疑いが晴れると、学校がそれほど苦痛でなくなった。むしろ楽しくさえ思えてきた。授業中に起こる笑い声を、以前は憎んでいたが、今は一緒になって笑うことができた。
それにしても高橋の変貌は凄まじかった。僕はおそらく教師が高橋に注意してそれでいじめなくなっなのだろうと思っていたが、それにしては優しさの度が過ぎるように思える。
こんなことがあった。体育の授業でペアを組むとき、友達のいない僕が一人でいると、高橋は「また一人かよ、俺が組んでやるよ」とにこやかに話しかけてきて僕とペアを組んだ。それもその笑いにはいっさいの嘲笑が含まれていなかった。
再び疑いが芽生えてきた。いや、今度は疑いというより気味の悪さだった。何か得体の知れないものに触れたときに感じる気味の悪さだった。
それはいじめよりもなお悪いものだった。いじめを受けるのはつらい経験だが、いじめを行う人間の感情は理解できる。しかし、この優しさは理解できない。
僕は理解できないものに苦しめられた。高橋の内部世界は全く、その一端さえ知ることのできぬ、闇に閉ざされた薄気味悪いものに思われた。以前はそうではなかった。いじめをする人間の内部世界など手に取るようにわかる。以前、僕はいじめを受ける弱者でありながら、相手の内部世界を把握している強者でもあったわけだ。
しかし今はどうだ? 僕はいじめを受けているわけではないが、未知のものに怯えている点では弱者のままだった。しかも、今は相手の内部世界の把握という強者の特権さえない弱者であった。
完全な弱者。優位な点を何ひとつ持たぬ弱者。
それからの日々はまた地獄だった。以前よりもなおひどい地獄だった。彼の優しさに触れるたびに、人間でも動物でもないものに愛撫されるような気味悪さを味わった。
いじめを受けていた日々が懐かしく思い出された。あの頃僕は、苦しかったとはいえ、理解可能なものに囲まれて暮らしていた。それがどれほど耐えしのぎやすいかをあの頃は知らなかった。今は得体の知れないものに脅かされていた。我慢の限界だった。
ある日、僕が係の仕事で牛乳のバケツを洗いに行くとき、手伝いに来た高橋に、こう言った。
「もうやめてくれ。優しくしないでくれ。僕を以前のようにいじめてくれ」
高橋は、奇妙に顔を歪ませながらも、口角だけは激しく吊り上げて、こう言った。
「俺はその言葉をずっと待っていたんだよ。これで堂々とお前をいじめることができる。なにしろお前がいじめてくれと頼んできたんだからなあ」
僕は身内に豊かな安らぎが湧いてくるのを感じた。
5/2/2024, 4:10:25 PM