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お題『美しい』


――美しい。
その言葉が猪野琢真の胸に浮かぶたび、決まって隣には七海建人がいた。

夕暮れのリビング。窓から差し込むオレンジ色の光が、七海の横顔をやわらかく縁取っている。スーツの上着は脱がれ、シャツの袖が少しだけ捲られている。その手元で、丁寧にコーヒーが淹れられていた。
「熱いので、気をつけてください」
七海はそう言って、マグカップを差し出す。言葉遣いは恋人になってからも変わらない。けれど、その声音は以前よりずっと、やさしい。
「ありがとうございます。……ねぇ、七海サンさ」
「はい、何でしょうか」
「今、すげーきれい」
七海は一瞬きょとんとしたあと、わずかに眉を寄せた。
「突然ですね。具体性に欠けますが」
「夕方の光とか、コーヒーの香りとか、七海サンの顔とか。全部ひっくるめてです」
猪野は照れもせず、まっすぐに言う。七海は困ったように小さく息を吐き、視線を逸らした。
「……全く君は、そういうところが反則です」
耳が、ほんのり赤い。それを見つけた瞬間、猪野の胸がきゅっとなる。年上で、理性的で、いつも落ち着いている七海が、自分の言葉ひとつで揺れる。その事実が、どうしようもなく愛おしい。
「七海サンのそういう顔も、きれいです」
「褒め言葉として受け取っておきますが、多用は控えてください。……心臓に悪いので」
そう言いながらも七海は猪野の隣に腰を下ろす。肩が触れ、体温が伝わる。
「美しい、ってさ」
猪野はカップを置き七海の手を取った。大きくて、少し硬い、傷もある、闘う人の手だ。
「完璧で、もっと遠いもんだと思ってました。でも七海サンといると、こういう普通の時間が一番きれいなんだって思うんです」
七海は黙って、その手を握り返す。指先が絡まり、逃げ場をなくす。
「……それは、光栄です」
低く落ち着いた声に、確かな温度が宿る。
「私にとっても、君と過ごす時間は美しいですよ。騒がしくて、少し無茶で……ですが、まっすぐで」
七海はそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。作り物ではない、柔らかな笑み。
猪野の心臓が跳ねる。
「やっぱずるいですって、それ」
「自覚はありません」
「あるくせに」
二人の距離が自然と縮まる。額が触れ、呼吸が重なる。
「……猪野くん」
「なんですか?」
「今の君も、十分美しいですよ」
そう告げてから、七海はそっと唇を重ねた。深くはない、確かめるようなキス。それでも、世界が静かに満ちていく。
夕暮れはやがて夜に変わる。それでも、この瞬間の美しさは、確かにここに残る。

猪野は思う。
――この人と生きる日々を、美しいと呼ぶんだ、と。

1/16/2026, 2:46:04 PM