しぎい

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本日の作業を終えた。作業灯を落とし、停泊灯を点ける。
船室に下りようとしていると、遠くから誰かに「おーい」と呼ばれた。

何だろう。
少し考えて、昼間に人魚を捕獲したことを思い出した。
俺は一応の無事を確認するために、慌ててデッキの反対側に向かう。

いまどき人魚なんて何の金にもなりやしない。人魚信仰があった昔ならともかく、それも廃れた今ではちょっと珍しい種族に過ぎない。
そんな生き物のために足を急がせているのは、見た目がほとんど人間と同じ奴らをみすみす死なせたら夢見が悪いから。

後方のデッキでは、青い鱗がびっしりと並ぶ尾びれでびちびちと水を跳ねさせながら、桶から腕だけ出している一頭の人魚がいた。
垂れ目がちな小さな顔を白い腕に載せ、今まで放置されていた不満をさっそくぶちまける。

「お腹減って死にそうだよお。あんた私を一本釣りしてからずっと放置だもん。人間って冷たいんだねー」

……いや。ほんと、見た目がモロ好みっていうわけじゃ、そういうんじゃ、ないから。価値が下がってるとはいえ、人魚の保護は漁師の任務だから。
俺は一体誰に言い聞かせているのかも分からなくなりながら、人魚が浸かっている、普段は釣った魚の保存に使用するプラスチックの桶に腰を屈めた。

「一人でこの船切り盛りしてると、あんたにかかりきりになれないんだ。わがまま言うな、群れから外れた迷子のくせに」
「迷子じゃないやい。あいつらが迷子なんだ」

黒い大きな瞳をいじけたふうに潤ませた。形のいい唇を尖らせている。外国のイメージでよくある金髪碧眼の人魚とは異なるが、日本人の理想を地で行く美少女、いや、美人魚だ。

(日本の人魚といえば、顔だけ男か女かすら分からない人間で、あと下は全部でっかい魚の化け物だもんなあ)

子供の頃、本で「これが人魚よ」と母に見せられて泣いたのを思い出した。
それが実際はどうだ。
腰辺りまで伸びた長い黒髪で、人間のものさしで測ると大きい分類に入る胸を……こう、上手い具合に隠している。
それを目の毒と思うのは、あくまでも人魚が人間と似ている見た目をしているからだ。桶に沈む下半身を見ればしっかりと魚だと分かる。
まだ人としての壁は超えていない、と謎に安心を覚えつつ、俺は機嫌を損ねた人魚に尋ねた。

「腹減ったって、あんたたち何が主食なんだ。魚か」
「バカ!」

人魚は凄まじい勢いで首を横に振った。
何をおぞましいことを言っているとでも言いたげに顔を青くさせていた。
私たちは共食いはしない、と全力で言うので、代わりに俺の常備食であるチョコがかかった棒菓子を差し出してみた。
人魚は物珍しげに匂いを嗅ぎ回って、恐る恐る一口かじる。すると青白かった顔にみるみる血の色が集まっていった。

「なにこれ! なにこれ! 人間ってこんなうまいもん普段食べてんの? ずるい! そりゃメタボにもなるわ!」
「なんでそんな人間の健康事情に詳しいんだ」

俺の疑問も意に介さず、人魚は一心不乱にチョコバーを貪り続けた。
食べカスが桶の中に溜まっていっている。
これ水を入れ替えるの俺の仕事か、と辟易としながら、俺は人魚の気持ち良い食いっぷりを眺めていた。

「人間ってクソみたいな奴ばっかだと聞いてたけど、あんたは違うのね!」
「人魚ってのは、みんな素直な性格なのか? だから絶滅危惧種まで陥ったのか?」

袋が空になると、人魚は袋をひっくり返したり下から見上げたりした。左右に振っても何にも起こらないと分かると、物欲しげな目で俺を見てくる。
しかしそのチョコバーはもともと俺の常備食だ。もうない、と首を振ると、人魚はこの世の終わりのようにしょげた顔をした。

あまりに落胆していたので、「海の中にチョコバーはない」ということで落ち着いてもらった。

6/30/2025, 7:57:04 AM