Open App


「連れていってくれたお店で頬っぺたが落ちそうになったり、お洋服選んでくれてありがとう。今日もとっても楽しかった!」
 こんなありふれた言葉では伝わらないかもしれない。もっとふわふわ浮くような感情を彼に伝えてしまいたかったのに、別れの時間が近付いて焦っていた。いつもとっても楽しい。それだけは分かってほしくて。
「あの店は俺の行きつけでね、君のお気に召したようで良かった」
 ふわ、と笑ってくれるだけでこんなにも満たされる。付き合って少しずつ彼が自分の世界を教えてくれるのが嬉しかった。好きな場所に物、おすすめの料理屋。彼は無口な訳ではない。むしろお喋りな部類だけど境界線を引くのが上手だった。
 同じ路線だけど私と彼の電車の行き先は反対方向、上りと下り。いつも私が電車に乗るところまで見送ってくれる。荷物も電車が到着するギリギリまで持ってくれて私の手を塞がないようにしてくれた。彼の手を塞ぐ事にはかわりないけど「腕に掴まって」とより彼とくっつけるので密かな楽しみだった。
 ホームに響く電車のブレーキ音、開くドア、車窓さんのアナウンス。全てが揃うと別れの時間だった。
「俺も今日も楽しかった」
 荷物が手渡されて「うん」と言いかけた『別れ際に』。彼の手が私に何かを握らせる。
「タイミング逃しちゃったけど君に似合うと思って。今日買った服と一緒に着けて見せて」
「え、まって…!」
 私の声は発車メロディに書き消されてしまった。無邪気に笑う彼に見送られて電車が動く。
 手の中の箱をすぐ開けたくもあるのに、力強く握られた彼の温もりが消えてしまうと思うとなかなか開けられなかった。

9/28/2023, 9:47:43 PM