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 終点より二駅前で降り立った。他に三人降りて、僕の前を背を丸めて歩いてる。
 エレベーターもエスカレーターもない。老人が、一段上に杖をついて、腕に力を込めて、脚を持ち上げて、階段を登っていた。キャリーバッグの女性が、一段ずつ、バッグを持ち上げている。手伝おうかとも思ったが、僕の存在で旅の思い出を汚してはいけないと思って、やめた。
 出場と書かれたICカードリーダーに、カードをかざす。ポップな電子音がした。この駅で、見たことも聴いたこともない光景だ。最近追加されたのだろう。最近といっても、ここ二十年ほどか。
 駅前は変わっていなかった。こぢんまりとしたカフェが一軒、居酒屋が一軒、それ以外は何もない。カフェのマスターは穏やかな低い声の、初老の男性だった。今もまだ、彼はいるのだろうか。覗く勇気は無かった。
 大通りの様子を見ることにした。道をまっすぐに進む。はっきりいって、怖かった。だが、僕にとって必要なことだった。
 小道を通って、広い道へ出た。視界が拓ける。
 そこには何もなかった。店も人もない。果てまで続いているのは、シャッターの閉まった店の跡で、かつての賑わいの、名残のみだった。
 僕は、目を閉じなくても、二十年前を思い出せた。そこに煎餅屋があって、隣には怪しげな服屋があった。観光客向けの土産屋に混じって、町に住む人向けの八百屋があって、しゃがれた声のばあちゃんが接客そっちのけで常連客と話してた。ふたり並んで団子を食べている女学生がいて、「おいしい!」「こんなの初めて食べたよ」って、はしゃいでいて、自分のことのように嬉しかった。
 そして、君がいた。えくぼをくっきりとさせて、僕に手招きをした。
 僕は、手招きをされるまま、この大通りを駆けたんだ。少し坂道になってきて、赤い三角コーンが目印の曲がり角を曲がって、細道を慎重に早足で進んでいく。そしたら、
 そこには何もなかった。君の家は、もうない。
 僕は、廃墟を眺めた。これは、かつて君の家だったのか、それとも、君の家がなくなった後、新たに建てられてまた廃れた家なのか。それすらも定かではない。
 でも、ここに来た目的は達成した。僕は、君のことを思い出せた。柔軟剤とほんのちょっと汗の匂いがして、僕の手を引く時、手のひらはしっとりしていて、坂道を駆け降りる時の声はきゃらきゃらと、風鈴のようだった。
 帰ろう。
 もう一度だけ振り返った。道路を跳ねるサンダルの音がふたり分、聞こえた。

11/5/2024, 12:55:15 AM