もあ

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泣かないで

「泣かないで」
私が顔を膝に薄めていると、いつもそんな声が聞こえた。
それでも震え続ける背中に大好きな手が寄り添う。
リズム良くとんとんと叩くその手は暖かくて。
隣にいる人の体温が伝わってくる。
私はその時間が好きだった。

ピピピピッとアラーム音がして身を捩る。ぼんやりとする頭で考えるに今日は休日のはずで、どうやらアラームを切り忘れてしまったようだ。カーテンの隙間からは日差しが伸びていて、自分の顔を照らしている。外から聞こえる鳥のさえずりを聞いていると目も覚めてくるのだった。
「……おきるか」
もぞもぞと布団を抜け出して階段を降りる。洗面台の歯ブラシ、キッチンの茶碗、机を挟んで置かれた椅子。
全て2つあるのにこの家には自分しかいなかった。
「いただきます」
自分の生活音しか聞こえない状況をどうにかしようとテレビをつけてチャンネルを回す。面白い番組が無いか探してみたがニュースで妥協した。子猫の映像に眺めながら昨日の残り物を口に運ぶ。
ふと映像が切り替わってアナウンサーの表情も固くなる。
「あ…」
近所のスーパーが映し出される。リモコンに手を伸ばして電源を切る。手に当たったコップが倒れて水がこぼれたがそんなの気にしている暇はなかった。吐き気が込み上げてきてすぐそこのゴミ箱を引っつかむ。
先日起きた事件がある。さっきテレビに映し出されたスーパーで、起きた事件がある。私はそれを、知っている。
隣でうずくまる母の姿が、立ち込める血の匂いが脳裏から離れない。私は傍に立ち尽くして、近くにいるのに音も景色も、何もかも遠い。遠のいてしばらく帰ってこなかった意識はけたたましく響くサイレンに引き戻される。その時はただ怖くて、恐ろしくて、訳が分からなかった。
それから――
思い切り頭を降って考えを遮る。食べかけの食事をほったらかして靴を引っ掛ける。新聞、選挙券、不在票。詰め込まれたポストを無視してふらふらと歩く。
何も考えたくなかった。
ただ逃げたいと思った。
「はは、何、から…?」
自嘲した笑みがこぼれるがあの日から、ましてやあの日にも涙が出ることはなかった。
葬式の時だってそうだ。周りから泣き声が聞こえてくるのに自分は一滴の涙も流れない。横たわる母の顔は綺麗で現実味が無かった。だって、あんなに苦しそうだったのに。
時間は止まらなかった。
私はいつもみたいに起きて、いつもみたいにご飯を食べて、いつもみたいに学校に行った。
何も変わらないようだとすら思った。
家に帰ると母がいて、温かいご飯があるような気がした。
そうに違いないと疑いたくなかった。そして何度も静寂に打ちひしがれた。それでも涙は出なかった。
ぐるぐるぐるぐる考え続けていると、随分長い距離を歩いてきてしまった。目の前には海。ここが何処かなんて分からないのに、どうしてか懐かしいと思った。
階段を降りて海に近ずく。段々と強くなっていく潮風に目を細め、波打ち際にしゃがみ込んだ。
白波が寄せては返して繰り返している。顔を上げると太陽の光を受けた海がきらきらと輝いていて癪に触った。握り心地のいい石を手に取り、海に向かって投げる。形のいい石は全くはねることなく沈んでいってしまった。
「相変わらず下手…」
思わず乾いた笑いとともにこぼれた言葉に違和感を覚える。相変わらずと言ったのか。
波打ち際から離れて階段に腰を下ろす。目の前に広がる海を眺めながら長らく考えた。
「あぁ」
何となく、腑に落ちる。
私は海に行ったことなんてない。これはきっと理想に違いないと。
小さい頃に海に行こうかと母に誘われたことがある。その時の私は嬉しくて週末までの日数を何度も数えた。海に行ったら魚を見て、貝殻を拾って、石を何回飛ばせるか競争して…そんなことを何回も思い描いた。でも当日に私は熱を出して、その約束が叶えられることは無かった。これからも無くなった。それからは悲しくて泣きわめいたことも忘れて日常を過ごしてきた。母はいつも忙しくて、休日は疲れていたから特に行こうと考えたこともない。学校とその家までを往来するだけの私は海を見たことがなかった。
私は母と海に行きたかった。魚を見つけて綺麗な貝殻を集めて水切りで遊んでみたかった。
「…もっと一緒に居たかった。」
静かな波音にさえかき消されてしまいそうな声が喉を震わせる。膝に置いていた手に雫が落ちて、思わず空を仰ぐ。
嫌になるくらいに青い空は雲1つない。
目の前が滲んで赤青黄色の壊れた虹のかけらが目の前で揺れている。
頬を伝う感覚がして鼻をすする。止まらない涙と共に抑えきれない感情の渦に飲み込まれてしまう。
声を上げて泣いた。襲い来る感情にどうすることもできなかった。ただ悲しくて、寂しくて、辛くてしかたなかった。
『泣かないで』
懐かしい声がする。顔を上げたけど周りには誰もいない。
知っていたはずなのに、まだ期待を捨てきれない自分がいる。背中を撫でてくれた温かい手は、もうどこにもない。それを受け入れられずにいる私の心に、冷たい風だけ触れてすべてが遠く感じられた。

私の目の前に広がる海が、どこか遠くで見た夢のようにぼんやりとした輪郭を持っていることに気づく。
涙は止まり、少しずつ呼吸が落ち着いてく る。
『泣かないで』
そんな声が、もう一度心の中で響く。
もう泣いてないよ。
本当に母が話している訳では無いと分かっていながらも返事を考える自分に苦笑しながら立ち上がる。
砂を払って海に背を向ける。優しい風が背中を押してまた泣きそうになったがなんとか堪えて前を向く。
「大丈夫。」
自分に言ったのか、心配性な母に向けて言ったのかは自分でも分からない。
行きよりも軽くなった足で来た道を引き返す。
また来よう。そう心に留めながら…。

11/30/2024, 2:42:05 PM