与太ガラス

Open App

 ずっと何かに追われている。

 逃れたくて走り続けているのに、引き離すこともできない。わたしの背後に、ぴったりとくっついて離れない。その感覚だけがある。たまに相手も勢いを緩めたかと思うが、油断をする間もなく迫ってくる。わたしは休むこともできない。

 追われて、追われて、追われ続ける。

 最後に家族で食事をしたのはいつだっただろうか。あの夜はカズキの好きなカレーライスを食べて、お気に入りのゼッケンジャーの服にルーをこぼして大騒ぎだったな。そんな夜を再び迎えることはできるのだろうか。

 昔、誰かに言われた。たぶんおばあちゃんだ。おばあちゃんの知恵というやつだ。

「追われている時は、決して振り向いてはいけないよ。振り向いたら・・・」

 なんだったかな。振り向いたら、その先は・・・。

 だからわたしは振り向くこともできない。何に追われているのか、知ることもできないのだ。

 その間もわたしは、背中と、耳と、鼻とでその存在を認識している。

 こんな時なのに、新作プレゼンの資料のことが気になってしまう。サワキさんはちゃんと46部印刷しただろうか。会議室の延長申請は出していたかな。わたしはそのプレゼンにたどり着くことはできるのか?

 昔、誰かに言われた。おじいちゃんだったかな。

「追われているうちが華だ」と。

 何が華だ。つらいだけだ。でもおじいちゃんは「追われていれば自分の力以上のものが出せる」と言っていた。それはそうだ。追いつかれたら捕まってしまうんだから、追いつかれまいと必死になれば、自分の持っている力以上のものを出すしかないに決まっている。

 そんなことを考えている間にも、わたしは追われている。

 ええい、いっそ・・・

 いっそここいらで、立ち止まってやろうか。

 立ち止まってやったら、きっと向こうもびっくりして、往生するに違いない。

 いいか、やれるのか、本当にその覚悟はあるのか?

 おばあちゃんの言葉はまだ思い出せない。

 でも、それでも、その先に今とは違う景色が見えるのなら・・・

 わたしは思い切って立ち止まった。すると奴は猛烈な勢いで襲いかかってくる。

 わたしはおそるおそる振り返った。

 すると今度は、立っているのもやっとなほど、顔に、目に、耳に、全身に叩きつけ、突き刺し、えぐり、傷つけ、次々に通り過ぎていく。

 その瞬間、おばあちゃんの言葉が降りてきた。

「追われている時は、決して振り向いてはいけないよ。振り向いたら、追い風は向かい風に変わるから」

 追い風の勢いについていけなくなったわたしは、すぐに向かい風と戦う羽目になった。なんだかそれも、楽しいような気がしている。

1/7/2025, 11:52:24 PM