藍田なつめ

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「覚悟したほうがいいかもね」
 帰ってくるなり、ルビンが言った。片手にパン屋の袋を持っている。ポーズのボタンを押してゲームを停止させ、口に押し込まれた何かしらのパンを片手で支えた。甘い。
「あ、それレモンクリームパンね。パイじゃなくてパンなの珍しいよね」
「はふほっへあんあお」
「え、なに? 口に入れたまま喋らないほうがいいよ」
 とりあえず足蹴にした。言葉の通り、足を蹴り飛ばしたという意味で。いたあい、と悲鳴をあげて床にうずくまるルビンの胴体に肘をついて、とりあえず口の中のパンを飲み込んだ。うわ、飲みもん欲しい。
「覚悟って何」
「何って、シンヤに関すること以外にある?」
 こく、と無意識に喉が動いた。クリームがべったりと水分を飲み込んでしまっている。吸血鬼を自覚する時と感覚が似ていて、すこし嫌になった。生意気な人間の首筋に無意識に目がいって、無理やり引き剥がす。
「……なに?」
 床に横になったまま、ルビンは袋から小さく丸いパンを取り出す。真ん中の窪みに茶色いソースが収まっていて、わずかにカレーの匂いがした。それをひとくち頬張る。いや寝転がりながら食うなよお前という俺の目を無視しながら。
「さっき駅前に行ったらシンヤに会ったよ。買い物行くとかいって途中で別れたけど」
「駅前?」
 ずいぶん遠くだ。俺はこの町に来た時以外、そんなところ行ったことがない。あの子だってそうだろう。用なんてないんだから。
 ざわり、胸の辺りがさざめいた。
「女の子と一緒にいたよ」
 女の子。
 そう聞いて最初によぎるのは、あの夜に会った、もう会えない、カリカリに痩せたあの子。
 ぱち、と時が止まったような感覚があった。それを、いつの間にかパンを食べ終えたルビンが静かな目をして見ていることに遅れて気がつく。ユキ、と静かに呼ばれて、とりあえず敷いていたその体を解放した。ゆらりとルビンが座り直して、俺に向き合う。
「ね、そういう歳だよ」
「……そういうって」
「あの子の母親と同じ。ていうか、この国の人間はだいたいこれくらいの時期なのかな? ちょっと遅いくらいだと思うけどねー」
「何の話してる」
「だから、」
 独り立ちだよ、という言葉を半ば信じられないような気持ちで聞く。だってあの子、俺の腕の中で浅く息をしていた、一緒に眠った、歩いた、言葉を覚えさせ、食べさせ、着替えさせた、あの子だ。ここ数年は、自分で洗濯して、掃除して、飯を作って、本だって自分で調達して読んでいたけど。それでも。
 あの子。
「だからね、ユキ」
「ダメだ」
「そう、ユキがそう思うのは勝手だけど、シンヤにも意思はあるって話」
「まだ子どもだよ」
「もちろん、最初のうちはサポートがいるだろうけど、それは私でも誰でも、できるよ」
「だからって」
「前にも言ったけど、どこにでも行ける子を囲い込んで閉じ込めるのは傲慢だよ、ユキ」
「……別にいいよ」
「ユキ」
「別にいい。傲慢でいいよ」
「そういう話じゃないでしょ」
「そういう話だよ!」
「ユキ」
 声を荒げた俺の顔を、パチンとルビンの両手が挟んだ。まるきりこんなの、子どもにする仕草じゃないか。バカにするな、と突き飛ばす。体制を崩したルビンがこたつにぶつかって、机に置いてあったゲームのコントローラーがこたつ布団に落ちた。
 ルビンが立ち上がる。俺より、シンヤより、昔からこいつはずっと大きい。腹立たしい。昔からずっとムカついていた。
「あの子は俺のだ」
「違うよ」
 冷たい目だった。ルビンのそんな目、初めて見るような気がした。
「シンヤの人生はあの子のものだよ」
 そんなことわかっている。理屈ではわかっているのに、この手の中に大切に持っていたあの子を取り上げられるようにしか思えなかった。

1/20/2026, 2:29:54 PM