鯖缶

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夜中、初めて二人で寮を抜け出した。
15分ほど走って向かったのは穏やかに波が打ち寄せる砂浜だった。
わたしと翠(みどり)は裸足になり、砂浜を駆け回る。
走り疲れて、二人揃って倒れるように砂浜に寝転がる。髪も制服も砂まみれにして砂浜に寝転がる翠の姿を先生方はもちろん、ご両親ですら想像し得ないだろう。
「こうして寝転んでみると、より星々が美しく見えるわね。」
「そうだね。」
月明かりに照らされいつにも増して白く美しい翠の横顔にわたしは微かな憂いを感じ取ったが、何も言わず星空に目を戻す。
翠が卒業後どうするのか、何をするのか、わたしはそれを聞くことができないまま今日の卒業式を迎えてしまった。
「茜。」
翠が名前を呼び捨てるのは学校の外、二人きりの時だけだ。
「何? 翠。」
翠の名前を呼び捨てにしているのはわたしくらいだろう。わたしも人目のあるところではさん付けしている。でないと注意されるからだ。
法城寺家の翠お嬢様。
それが翠について回る堅苦しい呼び名。
「わたくし…わたしね、茜と高等部で知り合えて本当に良かった。茶葉が浮いたティーカップも、お湯を入れるだけのスープも、息苦しいくらい人が乗った電車も、並んで食べたラーメンも…茜と知り合わなかったらどれもこれも知り得ないことでした。」
「笛になるラムネもね。」
わたしは思い出してふふっと笑う。
吹き加減が分からなかった翠は口からラムネが飛んでいってしまい、口を覆って真っ赤になっていた。
「もう、それは忘れて下さいって言ったじゃないですか。」
口調とは裏腹に翠は穏やかな笑みを浮かべている。
「忘れられないよ。あんなに、楽しかったこと。」
隣で翠が身体を起こす。長く艷やかな黒髪から砂がパラパラ落ちていく。
「あんなに楽しかった…もう、過去のことになってしまうんですね。」
翠が砂を握り、少しずつこぼしていく。
砂時計の砂が落ちるようにさらさらさらさら。
輝いていた時間が過ぎ去っていく。
「ねぇ、茜。キスしてもいいかしら?」
寝転がっているわたしからは翠の後ろ姿しか見えない。でもわたしには翠の泣きそうな顔が見えた。
「いいよ。」
わたしは目を閉じて想像する。
月明かりの中で、翠が泣きそうな顔をして振り返り、風に乱された髪を耳にかける。
耳元でサクリと砂が圧される音がする。
わたしの顔の横に手をついて、翠の顔がゆっくりと近づく。星の光を宿す潤んだ瞳からは一粒の煌めく星がこぼれる。
わたしは重なった翠の体を、砂で作ったお城に触れるように優しく抱きしめた。


外部の大学に進学したわたしが、翠が結婚して海外で暮らすことを知ったのはそれから2ヶ月後、人伝でのことだった。

3/16/2023, 1:59:18 AM