立てない。立てないどころか、布団から起き上がることさえままならない。鬱病の辛さを、俺はこの日初めて体感した。頭では動きたい焦燥が募るのに、動けない。寝ているのがこんなに苦痛だったのは生まれて初めてだ。
寝不足の頭にガンガン響く怒鳴り声。無意味で理不尽な叱責に、残業続きで疲弊した身体が更に重くなっていく。
遂に倒れた日、見舞いに来た上司は俺を嘲笑った。少しだけでも労りを期待した俺も馬鹿だったが、それで完全に俺の心は折れた。
上司の顔も見たくなくて、辞職届を退職代行に頼んで叩きつけ、俺は晴れて自由の身になった。けれど、自由の身になったところで折れた心がもとに戻るわけでもない。俺は、何もできない社会のお荷物に成り下がった。
他の人は、どれだけ落ちぶれていても何かしら役に立っているように見えて、自分だけが不適合者の烙印を押された気がしてならない。
そうやって、今日もまた布団に包まって倒れ込んでいた。何かすればこの罪悪感も少しは薄れるだろうに、俺の体は指先の一つさえ動いてはくれない。罪悪感、焦燥感、ありとあらゆる負の感情が濁流となって一気に頭に流れ込み、俺は強く掛け布団のカバーを握りしめた。
何かの通知が来たらしい。遮光カーテンを年中閉め切った薄暗い室内に、スマホの明かりが灯る。通知を確認するのもしんどいが、きっと俺に届く通知なんて一つしか無い。
『俺今日そっち行く』
それだけのメッセージ。それだけなのに、スマホの明かりなんかよりずっと明るく見えた。
社会に耐えきれなくて、潰れてしまった不適合者の俺。そんな俺を、唯一最後まで見捨てなかったのが彼だった。来たって、何を言うでもない。ただ静かに、俺が飲み散らかした薬の包装を片付け、食べられたらでいいと作り置きのおかずを冷凍庫に入れて寄り添うだけ。それが、何より嬉しかった。余計な詮索も心配もされないから、変な自己嫌悪もしなくて済む。傍に居て俺が泣きたくなったらそっと抱きしめてくれる。そんな彼が、唯一俺に許された社会とのつながりだった。
古いマンションの、トタンでできたような階段を上る独特の足音がする。ここは階段から一番遠い角部屋。まだ距離はある。
遠くに聞こえる足音が段々近付いてくるにつれ、沈みきった心にじわりと明るい感情が滲む。さっきまで全く動かなかった体が、少しだけ動くようになっている。
俺は、半ば這うようにではあるが、少しでも早くアイツの顔を見たくて玄関へと移動する。トタンを踏む音がコンクリートを踏む音に変わって、その音だけが今の俺をこの世に繋ぎ止めていた。
テーマ:遠い足音
10/3/2025, 3:43:08 AM