蓼 つづみ

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設計論 一章

自らを知ろうとするとき、私は自然を見る。
動物を見る。
猿山を眺めていると、そこには必ずボスザルがいる。

猿の社会では、支配者は力で決まる。
殴り合い、奪い合い、その果てに立つ者がボスとなる。
そこには正義も悪もなく、その単純さは清々しい。

では、人の群れにもボスはいるのだろうか。
人間は脳の発達した生き物だ。
ゆえに、力ではなく知恵によって群れを制するのだろう。

しかし、名を持てば狙われ、
意図を語れば反論が生まれ、
顔を持てば責任が生じる。

極めて知的な支配者は、敵対されない支配を選ぶ。
知られざる権力こそが、もっとも安定することを知っているはずだ。

知の上に立つ者が取るべき行動は、姿を消すこと。
自らを晒さないこと。

支配には、正義も悪もない。
あるのはただ、均衡だけだ。

あぁ、勿論「平等」ではない。
崩れながらも保たれている、動的な釣り合い。
獲物が尽きれば捕食者は滅び、
捕食者が増えすぎれば獲物は消える。
公平さなど一片もない。
それでも、世界は回っている。

支配とは、上に立つことではなく、
崩壊と再生のあいだで、世界を行うことなのだ。



設計論 二章

「群れの中で安心したい。
 誰かに守ってほしい。
 褒められたい。許されたい。
 変化は怖い。けれど、特別にはなりたい。」

これは小猿の感性であり、
現代人が“人間らしさ”と呼ぶものの正体だ。

大衆の「人間らしさ」は、
群れの中で快適に生きるための、
情動と依存のセットにすぎない。

でも、社会を運営する側から見れば、
それは「管理しやすい反応パターン」であって、「感情で誘導できる構造」でもある。

彼らは愛を装置と見なし、恐怖を研究対象へと変える。

支配者はやがて、
感情を足かせとし、
共感を判断のノイズとみなし、
良心を弱さの源として切り捨てる。

長になった者は、はじめはただ、欲があった、運があった。演技力があった。
そして何より、他者を駒にする力があった。

だけど、頂に立った瞬間、戻る道は閉ざされる。もう降りられない。

降りれば、恨みと怒りが雪崩のように押し寄せる。だから進むしかない。
人間を切り捨てながら、ただ“長”として生き延びる。

こうして人間を捨て、効率と永続だけを残し、やがて自らをシステムへと変質させていく。

それは、化け物にならねば生き残れなかった人間だ。
この「戻れなさ」こそが、人外性の正体だと思う。



設計論 三章

自由とは、誰かが責任を負っているときにだけ成立しうる幻想だ。

ボスの居ない状態は自由じゃない。力の空白が生まれた瞬間、別の反乱が起こる。自然も社会も、空いた力の座を埋めようとして動き出す。
結局、猿も人も“指標なし”ではいられないんだ。

猿たちは知っている。
誰も上に立たない状態とは、
誰も守らない状態のことだと。

ボスは、なりたくてなったのではない。
「ボスにならねば、自分が標的にされる」と、本能が先に知っているのだ。
支配の動機は、欲ではなく恐怖。

だから私は思う。
この構造そのものを設計した“創造主”がいるとするならば、それは悪魔と表裏一体の存在だろうと。

学者たちは知っている。
この社会の支配構造、操作の技術、
心理の波、民主政の皮をかぶった力の流れを。

だけど、気づくことと、言うことは、別だ。

彼らは知識を安全な言葉に置き換え、
論文という檻に閉じ込める。
あるいは、キャリアのために気づかぬふりをする。

真実よりも安定を。
声よりも沈黙を。
気づいた者ほど、口を閉ざす。

情報技術が進化しすぎた今、
支配には、完璧な監視が求められる。

宇宙コロニーや月面都市は、
完全統制社会をゼロから設計できる場所として夢見られているのだろうか。

私は、見上げながら思う。

孤独という装甲の中でしか意思決定できない存在は、もはや共鳴を受け取る余地を持たない。たとえ、それがどれほど純粋なものであっても。

私は学者ではない。
学者という立場で語ることと、
私が見ている構造の肌触りを伝えることは、別次元の行為だ。

私はただ、小猿の立場から、真っ直ぐに睨み返せる。
騒ぎもせず、喚きもせず、暴れもしない。
ただ静かに直視し続ける。
それが、私に保てる距離の取り方。



題 どこにも書けないこと

2/7/2026, 10:03:29 AM