shirafu

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「お先に失礼しまーす」
「おつかれさーん」

 定時を過ぎ、人がまばらになった事務所内。誰に言うでもなく声を出すと、残った従業員たちから気の抜けた声が返ってくる。

 ロッカーから薄手のコートを取り出して羽織り、裏口を開け駐車場へ向かう。まだ日中の暖かさが残る微温い空気が、春が来たぞと告げるように揺れた。

 凝り固まった背中をほぐすように背伸びを一つ。一日中パソコンのモニターとにらめっこしていたせいか、目の奥がじんと重い。
 ゆるゆると首を回しながら車に乗り込み、エンジンをかける。寒さが和らいだおかけで、予めエンジンをかけておく必要がないのは助かる。雪が降り続いていた数週間前が、まるで大昔のことのようだ。

『⸺ラジオネーム、サクラサクさんからのおたよりです』

 エンジンをかけた車のスピーカーから、僅かにノイズの入った柔らかい声が流れ始めた。今日は木曜日。確かこの時間帯はリスナーからのお悩み相談とリクエストコーナーだったか。

『いつも受験勉強のお供に聞いています。優しいトークに、いつも癒やされています。読んでもらえたらうれしいです』
『ずっと受験勉強に打ち込んで、憧れていた大学に合格できました。でも、嬉しいはずなのに、同じくらい不安でいっぱいです⸺』

 もう、そんな季節か。
 胃が捩れそうなほど緊張しながら受けた入試、不合格通知を受け取る悪夢に悩まされた日々、そして合格発表……。一応会社内では若手に分類されるはずなのに、『そんなこともあったな』と考えている自分自身が、いやに年寄りに思えた。

 ぼんやりとラジオの続きに耳を傾ける。パーソナリティが、いつもの柔らかい声で『これからがスタートだよ』と伝え、新生活に向けるエールになる1曲を、と私が学生時代によく聞いていたバンドの曲を流し始めた。

 懐かしい曲に引っ張られ、学生時代の記憶が次々と湧いては弾けていく。通訳や翻訳家になりたい、と一番得意な英語を武器に息巻いていた頃。大学の専門学科に飛び込んでみたものの、周りは自分と同じくらい英語が得意な生徒しかおらず、伸び切っていた鼻をへし折られた頃。迷走に迷走を重ね、就活もままならなかった頃。
 そういえば、入試の時も、就職に迷っていた頃も、この世の終わりかのように感じていた。今思えば、当時は『若かった』のだろう。
 憧れの職とはかすりもしない職に付き、社会の歯車として働いていることを過去の私が知ったら、どう思うだろう。軽蔑するだろうか。

「軽蔑……は流石に無いか。うん」

 過去の私が、現在の私を知ることはない。過去が地層のように重なるのでなく、過去から時間の糸が続く先に私がいる。

 過ぎ去った日々を想うのは悪くないけど、考え過ぎも毒だな、と独りごち、帰路へ着くべく、私はアクセルペダルをゆっくりと踏んだ。

3/9/2023, 1:09:15 PM