宮沢 碧

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2024/09/14

『めざめ』

宮沢 碧

 『車を運転する時は、薄暮に気をつけるように』

 教習所でそう習ったのは一五年前だっけ。まさに夕闇の始まりを俺は東京から大阪に向けて、東名高速を駆け抜けていた。

 はたちの夏休み、友達ととった運転免許を俺は今日も使って生きている。その友達はもう連絡はとっていない。付き合う人が減る。変わる。生きる空間が異なっていくから自然とそうなる。大人になるとはそういうものだ。毎日誰かと話していてもそこらを歩いている見知らぬ赤の他人と同等或いは毛が生えた位の浅さだったりする。たとえば近所の人、会社の人。自分がきちんとした関係を作ってこなかったせいも幾らかある。

 そのことについて、今ほど思い詰めて考えることはなかった。

 トラックの長距離運転手を始めた。会社を退職したから。人と協力してプロジェクトを進める仕事には疲れてしまった。家庭は持っていない。他人というものをどうしてもうまく信じきることができなかった。寄りかかったら倒れてしまうもの、寄りかかったら消えてしまうもの、寄りかかられても重いもの。初手の恋愛で、伸ばした手を拒絶された日から僕は全然立ち直れていなかった。

 傷を舐めるという趣味もなかったから、数少ない友達に打ち明けて相談することもしなかった。昔のように学校で毎日会わなくなった分、たまに会う時やたまに連絡を取り合う時には強い俺、安定した大人でありたいと小さくも高いプライドがあるからだ。それを崩したら最後、きっと一片のカケラも残さずに俺という存在が砕け飛んでしまう。でも大人になってからの恋愛の躓きは壮大で、ぽっかり空いた穴の埋め方がわからない。昔読んだ仕事の啓発本に問題は書き出せという文言があったと思い出してペンをとってみたものの、言葉を書きつけてしまえば現実を書きつけさせられているようで、一文字も、一筆たりと文に書き留める気になれず。拗れに拗れた。どうしようもないから空箱に墓と書いて、蓋を閉じることで過去を無理やり閉じようとした。

 箱が閉じようと、心の傷は塞がりはしない。ならば忙殺されてしまえと飛び込んだのが運転手の仕事だった。求人の中で1番最初に目に飛び込んできた掲載だったから。なり手が少ないこともあり、すんなりその会社に入り、長距離ドライバーになった。車の運転は嫌いじゃない。むしろ好きだ。そしてこの仕事ならば一人で完結させることが出来た。まさにうってつけだった。

 しかし大きなミスがあった。運転する間、俺は一人で、その恋愛の痛みと孤独を反芻をせざるを得なかったのだ。暗くなれば考え事をしたくなるのが人の性だ。アンニュイな夕暮れを迎えれば、夜景を見れば思い出が走馬灯。眠気覚ましに聞くラジオから恋愛の歌が流れない日はない。満開のラブソングを聴いてもいたたまれず、バラードが流れれば同じ心境にずっぷりとハマって、悩みは深くなるばかり。

 人はどうやってこの傷みを乗り越えているんだ!と、無線で繋がる同エリアを走るオヤジ運転手たちのよもやま話を聞きながら、子供や妻の話をする連中の古傷を思ったりした。いや、古傷なんてないのかもしれないとさえ思った。初手の恋愛が遅すぎた。何も知らなければ、鉄棒から落ちてもまた鉄棒を握ることができる。でも、大人になってからじゃ遅い。最悪首の骨を折って死ぬこともある、不随になることもある。とか。色々知りすぎている。

 こんな時に自分の弱いところを一緒に慰め合って、笑い合える人を一人でも作っておくべきだった。苦しい苦しいと思いながら、自ら作った鉄壁の矜持の壁に挟まれて、誰一人として腹の中を見せられる相手がいないことを悔やんだ。そして同時に腸を見せる勇気がない小さな自分を恨めしいと思った。自分は涼しい大人だと言わんばかりに世の中を泳いだ罰か。

 辛気臭さに、辟易して窓を開けた。重低音のタイヤの音と、ごおぉという風が入る。それから、定期的に眠気覚しで入れられた溝が鳴らすゴトンゴトンという音だけ。それ以外は本当に静かな夜だ。無機質な世界だ。今夜は月もなかった。定期的につけられたオレンジ色の灯だけが道路を照らす。暗闇に真っ直ぐに連なる電灯が指し示すこの道をまっすぐ行け。それしかわからない。

 涙が溢れそうになった。いや、俺の目からは確かに涙がぼろぼろと溢れた。この気持ちを認めなければ強くなれない。俺はそう思った。サンバイザーを下ろして、中のミラーを見た。中の男は泣いていた。情けない、それが俺だ。俺はグスとしゃくりあげた。目に焼き付けて、サンバイザーを戻す。

 ふと、そこにさしていた免許証が目に入った。はたちの夏にとったゴールド免許だ。

 「薄暮には気をつけるように。そして夜明けにも気をつけるように」

 俺は教習所の教官の言葉を思い出した。薄闇は、見えにくいから気をつけなさい。夜明けは眠気に気をつけなさい。そして、夜明けの暗さに気をつけなさい。それは人生の教訓だと言っていた。
 その時は意味がわからなかった。今ならわかる。ああ、これは夜明けだ。俺は人生の第三幕を感じた。子供が一幕、就職して二幕、そして、俺はまた人生の転機を歩いているのだ。

「夜明け前が一番暗いというから」
 もう顔の記憶も朧げな、教官の言葉が俺の口から溢れた。

 オレンジの電灯が真っ直ぐ道を照らす。



テーマ:夜明け前

9/13/2024, 10:28:01 PM