sairo

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昨日までの降り続いた雨が嘘のように、空は澄みきった青を広げていた。
汗ばむ額を拭う。そろそろ夕暮れだというのに、照りつける日差しは容赦なく肌を焼く。眩む視界に立ち止まり、眉間を押さえ目を閉じた。
梅雨はまだ明けない。だが確実に近づく夏の気配に、ぞくりと背筋が薄ら寒くなる。
夏が来るのだ。怖ろしく、忌まわしい夏が。
あの悪夢を引き連れて、今年もまた夏が来る。



「夏、ねぇ」
「ちょっと、見ないでよ」

笑いを噛み殺した声に、慌ててノートを閉じた。
振り返れば、意地悪く笑うクラスメイト。にやにやとしたその顔に、見られた恥ずかしさから頬が熱を持つ。

「減るもんじゃなし、続けろよ」
「煩い。あっち行って」
「けち」

伸びる手を叩き落とし、急いでノートをしまう。残念だと言いながら、その顔は少しも残念そうには見えない。
きっと馬鹿にしている。放課後の教室に一人残って、ノートの端に空想を書き付けている。可笑しな奴だと、そう思っているに違いない。
視線を逸らして立ち上がる。

「もう帰るのか?」

静かな声。空気が変わった。
けれどそれもきっと気のせい。ただの気分の変化。
部屋の温度が下がっていく感覚に気づかない振りをして、クラスメイトの横を通り過ぎる。
答えてはいけない。気づいた事に気づかれてしまったら、戻れない。

「まだ早いだろ。ゆっくりしていけよ」

腕を掴まれた。冷たい、氷のような手。
掴む腕の強さは弱い。それでも体は腕を払う事も、進む事も出来なくなってしまった。

「――帰る」
「酷い奴。寂しい俺の相手をしてくれてもいいだろう?」

腕を引かれる。引かれて、そのまま椅子へと座らされた。
目の前にクラスメイトが立ち塞がる。掴まれた腕は離れず、帰れない。
鞄を抱きしめて俯いた。腕を掴む白い手が視界に入り、急いで目を閉じる。
視界になど入れたくない。これは逆らえない私の、せめてもの抵抗だ。

「なぁ。さっきの続きを読ませてくれよ。夏の悪夢って何だ?」
「教えたくない」
「なんで?それってもしかして――」

掴まれた腕を上げられ、爪を立てられる。
痛み。皮膚の中に入り込もうとするように思えて、目を開けて顔を上げた。

「悪夢は、俺の事だから?」

白くて虚ろな、死人の顔をした彼と目が合った。


「酷いなぁ。本当に酷い」

瞬きをする事も忘れて彼を見る私に、悲しげに囁く。
その表所は眉一つ動かず、目が瞬く事もない。声だけが表情豊かに語り続ける。

「悪夢だって。なんでそんな酷い事を想うんだ?俺は怖ろしくも、忌まわしくもないだろう?……誰にも気づいてもらえず、気づいてくれる唯一には素っ気なくされる。可哀想な奴じゃないか」

乾燥してきた目が、次第に涙の膜を張りだした。涙の膜越しに見えるのは、眉を下げて頬を膨らませるクラスメイトの姿。頬には赤みが差して、活気に満ちあふれている。
軽く睨む目が何かを思いついたように緩み、口元を歪ませながら、腕を掴んだ手にさらに爪を立てた。

「痛っ」
「俺も痛いよ。痛くて痛くて……死んでしまいそう」

痛みに顔を顰め、その表紙に膜が涙として流れ落ちる。
膜のなくなった視界の先の彼は、表情が抜け落ちた死人の顔だ。けたけたと楽しげな笑い声と、無表情で虚ろな目の差に混乱する。

「死んでるのに、死にそうな痛みを与えられるなんて、本当に可哀想な俺。どうして俺はここにいるんだろうな」
「し、知らない!」
「本当に?……本当は全部知っているんじゃないか?俺がここにいる理由。俺が誰なのかも、全部」

首を僅かに傾げて顔を近づける。微かに薫るのは線香の匂い。
あの日、彼の葬式で嗅いだ――。

「知らない。あなたなんか知らない……夏に出るただの幽霊なんか、私が知るわけないっ!」

首を振って必死に否定した。
夏の始まりと共に現れる彼。一人多いクラスメイト。
ただそれだけ。それ以上は知らないのだと、彼にも自分自身にも言い聞かせる。

「――本当に酷い奴。そんなにおまえを振ったのが許せなかったのか。五年も経つのに、まだ恨んでいるのか」

本当に怖ろしいのは、どちらなんだろうな。

どくりと、心臓が嫌な音を立てた。
呆然と彼を見つめる。
虚ろに開いたままの目がゆっくりと歪んでいき、悍ましい笑みを形作っていく。
込み上げる涙を彼の冷たい指が拭う。けれども彼の歪な笑顔は、ずっと顔に張り付いて消える事はなかった。

「五年経って、おまえは俺と同い年になった。来年からはおまえが年上だ。それなのにまだ許してくれないのか?」
「許す……?」

彼の言葉を繰り返す。私は彼を恨んでいるのだろうか。
記憶が過ぎていく。歪な笑顔の彼が、黒の額縁の中で微笑む彼の写真と重なっていく。

「許してくれ。もう可哀想な俺を解放してほしい」

どうやって。
声に出さずに呟けば、腕を掴んでいた彼の手が離れ、手を繋がれた。

「俺と一緒にいこう。このままあの場所に行くんだ。俺と同じように」

あ、と声が漏れた。手を引かれて立ち上がるが、それだけで歩き出しはしない。
繋がれた手を見つめ、顔を上げて彼を見る。

「いかない。それが許さない事になるなら、私はあなたを許さない」

虚ろに開く目を見て告げた。

「――そう。ならいいや。まだ夏は来てないし、俺が死んだのも当分先だ」

歪な笑顔が抜け落ちていく。元の無表情な死人の顔に戻った彼は、表情と同じく無感情に呟いて手を離す。

「梅雨が終わって夏が来たら、また来る」

それだけを告げて、彼は瞬きの間に消えてしまった。



深く息を吐いてしゃがみ込む。震える体を抱いて、目を閉じた。

五年前に死んだ、年上の幼馴染み。
彼が言うように、五年経って私は彼と同い年になった。
年上の憧れを、恋と勘違いしたあの頃。当然彼は本気にしなかった。笑って、大きくなったらなんて、そんなありきたりな言葉で私の恋を否定した。
ただの憧れ。夢を見ているだけ。
皆が言う。今の私もそう思う。
それでも確かに。
あの時の私は、彼に恋をしていた。

梅雨の終わり、夏の初めに現れる彼が、本当は何なのかは分からない。
彼の生への未練か。私の昇華できない恋心か。
それともまったく別の何かか。
分からない。でもこれだけは言える。
彼は違う。私の好きだった彼は、もうどこにもいないのだ。
呼吸を整え目を開く。ゆっくりと立ち上がり、歩き出す。

廊下の窓から見える空は、僅かに赤が混じる青。梅雨が終わろうとしている。

もうすぐ夏が来る。彼を殺した夏が、彼を連れてやってくる。
もう一度彼に出会った時、彼を拒む事が出来るのか。
私には、もう分からない、



20250628 『夏の気配』

6/29/2025, 1:16:41 PM