満天の星と月明かりの下、土手に座って話をした。民家の明かりもすっかり消え、ネオンの喧騒は遠い。鳥や虫や風まで今日はやたらと大人しく、まるで世界に文士さんと私のふたりしか存在していないような錯覚を覚える。
そんな、人の目も耳も気にしなくて良い空間だったからか、適当に話して終わらせようと思っていたはずなのに、自分でも驚くほど言葉が出てきて止まらなかった。
ああ、そうか。そういえば、しばらく君と話していない。君に恋人が出来てから、ずいぶん声をかけづらくなったのだった。まぁ、君のことを君本人に相談するわけにもいかないし。私には君の他に話が出来る友もないから、必然感情を抱え込むことになった。私はそれを誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
話し続ける私に嫌な顔ひとつせず、文士さんは時折相槌をうちながら聞いてくれた。彼の閃きの手助けに、自分の愚痴がなっているのなら幸いだが。
私の舌が乾いてきた頃合いで、文士さんが栓を開けた缶ジュースを差し出してきた。ずいぶん気の利く人だ。大きな赤いハートの中に可愛らしいフォントで“My Heart”と書かれている。初めて見る。新商品だろうか。私はお礼を言ってそれに唇を寄せた。
紅茶のような香りとほんのりとした甘さ。「美味しい」と口に出した次の瞬間には、吐いていた。
「なるほど。これがあなたの中にあったものですか」
まじまじと文士さんが私の吐き出したものを見つめている。毒を盛られたと思った。それはもう、とびきりおかしな。私は生まれて初めて、口から黒猫を吐いた。
状況を理解出来ず言葉を失っている私をよそに、文士さんは続けた。
「これが今あなたの中にある1番厄介な感情です」
毛づくろいをする黒猫を文士さんの手が示す。
「は…?感情?」
私の理解はまだ追いつかない。
「この飲料はですね、飲んだ人間の中にある1番強い感情を体外に出してくれるんです。大きすぎる感情って、内側にあると苦しいじゃあないですか。加えて、それに実体を持たせることが出来るんです。吐き出すものは人によって違いますけど。黒猫は呪いになる一歩手前なんですよ、危なかったですね。さぁ、では、こちらをどうぞ」
そう言って文士さんは金槌を私に手渡した。
「…これは?」
「ひとおもいに!」
「何をですか」
「決まってるじゃあないですか。あの黒猫を殴って殺すんですよ」
文士さんは爽やかな笑顔で言った。
「は?どうして、殺すなんてひどいこと」
「ひどい?いやだな、あれは生き物ではありません。あなたの中にあった今のあなたには不要な感情です。あれを殺すことが出来れば、あなたを苦しめる恋心は綺麗さっぱり消えてなくなります。悩み解決ですね」
「そんなバカな…」
「撲殺は嫌でしたか?他にもありますけど、どれにします?」
文士さんはサバイバルナイフやら何やらを、まるで異次元なのかと思わせるトランクから次々と出して私の前に広げた。
「いや、そんなこと出来ませんよ」
「どうして?今ある苦しみから解放されたいのでしょう?」
「そうですけど…」
「なら、躊躇わないで」
文士さんは、私が一度返却した金槌をまた私の手に握らせた。
「ああ、言い忘れていましたが、体外に出した感情を24時間以内に殺せないと、あなたが死ぬことになります。それでもよろしいので?」
「は?」
そんな大事な説明もなしに、なんてものを飲ませてくれたんだ。知らない人からもらったものを、警戒せずに飲んでしまった私も私だけど。
「では、私は執筆に戻ります。頑張ってくださいね。あれを殺せれば、あなたの心は晴れて自由なのですから」
私の脳が正しく再起動するのに手こずっている間に、いつの間にか文士さんは姿を消していた。土手には私一人がポツンと取り残され、先程まで心地よかった静寂が急に怖くなる。
夢だと思った。私はきっと今自室で眠りに落ちているのだと。
とりあえず落ち着くために深呼吸して、試しに足元にいる黒猫にそっと触れてみる。ふわりとした滑らかな感触と伝わる体温。癒やされる。しかし次の瞬間には、フーッ!と威嚇されて右手の甲を引っかかれていた。夢にしては痛みがリアルだ。夢ではないのかもしれない、なんて予感を私は頭を振って思考から追い出した。
すると、突然黒猫がどこに向けてか走り出す。私は遠くなっていく黒猫を呆然と眺めた。まぁ、夢なら放置で構わない。醒めるのを待てばいいだけなのだから。夢ならば。夢なら…
私の爪先は大きく踏み出していた。筋金入りの臆病と生存本能に突き動かされて。河川敷を全力で駆け出した私を、夜空の月が笑っている気がした。
3/28/2023, 8:03:23 AM