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お題「優しいだけで、きっと」

あなたが元気な様でよかった

その言葉を聞くのが、僕は辛かった。

数ヶ月に一度だけ、僕の両親は、僕にその言葉を言いに来る。
病院の近くのコンビニのプリンを渡す表情は、いつもどこか遠慮がちで、後ろめたいような顔色が、垣間見えていた。

ありがとう
お父さんとお母さんの子供に産まれて、僕は幸せだよ

僕はいつも、そんな感じの言葉と共に、満面の笑みをお返しする。

その言葉を聞いた両親は、安心した様な、気まずい様な顔で微笑み、病室を後にする。

僕の日常は、ここが全てだ。
何の表情もない綺麗なベッド。
定期的に掃除してくれる清潔な部屋。
一歩でも外に出ようものなら、数人がかりでお祭り騒ぎ。
昼でも夜でも変わりなく、ただ過ぎていく時間に身を任せている。
それが僕の生活の全てだった。

でも、そんな僕にも小さな期待の様なものはあった。

隣の病室にいるおばあちゃん。
年は90に近いんじゃないだろうか。
いつも無愛想で、不機嫌が固まった様な表情をしている。
重々しい口元と、対照的な粘つく様な目つき。
僕の病室にきた看護師さんが、安堵の表情を浮かべているのを、何度か見たことがある。

でも、僕にとっては、見た目が怖いだけじゃなかった。
おばあちゃんが外に出た時は、いつも採ってきたささやかなお土産と共に、季節の便りを運んできてくれた。

桜の花が煩わしいね…
こう暑いとやってられないよ…
こんなに寒いなんて、神様はよっぽど意地悪だ…

おばあちゃんの話は、いつでも愚痴が混じっている。

それでも僕は、おばあちゃんが外で拾ってきてくれる、他愛のない話が好きだった。

険しい表情もそれだけで、怒ってくる様な事は一度もなかった。

何より唯一、おばあちゃんの話を聞いてると、僕は自分がここにいるという事実を、忘れられてる様な気がしていた。

でも、その日、僕は聞いてしまった。

いつもという程頻繁ではない、両親とのか細いやり取り。
いつも通りに普通の会話をし、無難な笑顔を交わして見送った先の、扉の向こう。
疲れ果てた様な、お父さんの声。

いつまで治療費を払えばいいんだ…

わかってはいた。
気づいてはいた。
でも知らない振りをしていた。
目を背けて、自分には罪がないのだと、ただの被害者なのだと、思い込もうしていた。
でも、突きつけられた。
胸を抉られ、顔面を殴りつけられた様な気がした。
でも、それでも…

僕は無理やり、大きく息を吸い込んだ。

いつもと同じ
いつも変わらない
気づいてはいたんだ
当然の事なんだ
両親が決して裕福ではない事も
僕の存在が、家族の未来を閉ざしている事も
ただ、はっきりしただけ

僕は吸い込んだ息を噛みしめると、肺が悲鳴をあげるまで、強く強く呼吸を止めた。

次の日。

病室にやってきたおばあちゃんに、僕は言った。

おばあちゃん
もう終わりにしたい

くるなって事かい?

違う
これ、止め方わかる?

僕は僕の隣に居座ってる、大げさな機械を指さした。

無駄な電気を消費する機械からは、どういう経緯を辿っているかもわからない線が伸びて、僕の体に間接的に繋がっている。

おばあちゃんの目が、ぎろりと巡った。

おばあちゃんは椅子から立ち上がると、機械のそばまで行き、壁と機械の間に手を差し入れる。

いいんだね?

うん
お願いできる?

僕にはなんの迷いも後悔もなかった。
これで合ってるだという確信が、胸の中央に強く居座っていた。
ただ、心の奥で、裏返る様な吐き気と、今にも暴れ出しそうな震えを、一生懸命、意識の外に追い出そうとしていた。

早くしてよ

必死に声をひねり出す。

でも、おばあちゃんは動かない。
機械の裏に手を差し込んだまま、こちらを鷲の様な目で見ている。
やがてその目を閉じて、淡々と話だした。

私のガキの頃は…

おばあちゃんは語りだす。

貧しい家に産まれた事。
小さい頃から小間使いとして働いていた事。望まぬ相手と結婚した事。
自分より先に家族を亡くした事。

僕は、自分の都合も忘れて、おばあちゃんの長い自己紹介に聞き入っていた。

いつもと同じだった。
いつもと同じ様に、おばあちゃんの話を聞いていると、僕は自分の事を忘れられる様な気がした。

でも、おばあちゃんの話が付け加えた言葉で、僕は

生きるっていうのは、苦しいという事なんだよ

心臓を鷲掴みにされた様な気がした。
両手で挟まれて、潰されるような気がした。
ベッドの上で体を抱いて、うずくまった。

苦しい。

…なら、おばあちゃんはなんの為に生きてるの?

潰れそうな肺から言葉を押し出す。

自分でいる為さ
自分がしてきた苦しみを、自分のものなのだと、大切に守る為さ

わけがわからなかった。
わけもわからずに、ただ、ダムが決壊した様に、際限なく涙が溢れた。
意識なんて出来なかった。
目の前が真っ白に塗りつぶされた様だった。

苦しい
とても苦しい
誰もいない夜の病室
何もない昼の時計の秒針
気を使いながら食事を運ぶ看護師さん
後ろめたさそうに踵を返す、両親の後ろ姿
その全てが、僕の存在を否定し、蔑んでくる
でも、それよりも、何よりも、僕自身が僕を嫌でたまらなかった
殺したいという思いから、背を向けてきた
その事実が、僕をどうしようもなく苦しめる

でも、

それでいい
それでいいんだよ
苦しい事なんて、普通なのさ

おばあちゃんの手が、僕の頭に置かれた。

撫でる事もせず、ただ僕の頭に手をおいただけ。

おばあちゃんの冷たい手が、髪を抑える感触に、僕の体は震えた。

やがて体の震えが収まると、僕は顔をあげ、おばあちゃんの手をとった。

シワだらけの手だった。

僕は、おばあちゃんの手に触れた事は、初めだったと、気がついた。

5/3/2026, 10:56:03 AM